車之助を斬ると間もなく引き上げたものらしく、風呂場で手を洗った形跡があって、壁の破目板《はめいた》に、血で大書してあった。
[#ここから3字下げ]
五番首 笠間甚八殿
六番首 日向一学殿
七番首 長岡頼母殿
八番首 博多弓之丞殿
九番首 峰淵車之助殿
[#ここで字下げ終わり]
喬之助と右近が、うなぎ畷の往還《おうかん》へ出《で》ると、物ものしい御用提灯の灯が闇黒《やみ》ににじんで、ぐるりと長岡の屋敷をとりまいている捕手の勢……さてはッ! ここでも亦乱闘を余儀なくされる、と、二人が再び剣をとって身がまえにかかると、
「出て来たぞ! 逃げろにげろ! 刃物《はもの》を持ってるから傍へよっちゃあいけねえ。とても生捕りには出来ねえから、みんな逃げろ、逃げろ……」
捕者役人が刃物に恐れをなして逃げろにげろと叫んでいる。侍の斬込みである。刃物を帯びていることはきまりきっている。何も、逃げるために、今までわざわざ犇《ひし》と囲んで張り込んでいなくてもよさそうなものと、喬之助はフッとおかしさがこみ上げて来たが、その、しきりに逃げろにげろと呼ばっている声にかれは覚えがあった――。
たしか、壁辰父娘《かべたつおやこ》のはなしでは、金山寺屋の音松とかいったが、あの、七|草《くさ》の夜に、下谷の壁辰の家で、自分をこの右近と言いくるめて危いところを助けてくれた大兵の男の声……あの渋い声、あの時の津浪《つなみ》のような笑い声――そうだ。いつかも富士見の馬場へ現れて大岡殿が試乗に来るといって敵を払い、じぶんを助けてくれた……。
今夜は、敵を逃がさぬように、それとなくこの屋敷を包囲していてくれたのではなかろうか。
この、重ねがさねの好意あるしうちに、喬之助が、闇黒《やみ》の中で声のするほうへしきりに目礼を送っていると、騒動を聞き、乾児《こぶん》をまとめて駈けつけて来た金山寺屋の音松、大岡様に呼びつけられて、それとはなく言いつけられたように、
「怪我しちゃア、つまらねえ。逃げろ、にげろ!」
まだやっている。
戸外《そと》は大変な人集《ひとだか》りだ。もっとも、みんな火事と間ちがえているので、寝巻のまま飛び出して来たやつが、寒そうに胴《どう》ぶるいしながら、
「エオウ、吉イ、さっぱり煙が見えねえじゃねえか」
「そうよなア、こちとら気が短《みじけ》えんだ。どこでもいいから、ぱッと燃え上っちまえ!」
人にまぎれて、そのワイワイいうさわぎを分けて喬之助と右近は、本郷を出はずれた。
一すじ、頭上に、天《あま》の河が白かった。
六
本郷へ斬込みに行った茨右近と喬之助の帰りが晩《おそ》い。知らずのお絃は、気になってたまらなかった。
「どうしたんだろうねえ。あたしもこれから、一ッ走り行ってみようかしら」
こう……神田帯屋小路、油障子に筆太に書かれた喧嘩渡世の四字、茨右近の喧嘩屋である。
ふかしていた長煙管《ながぎせる》をガラリ抛《ほう》り出して、お絃がブラリと起ち上った時、
「御めん下さいまし……」
あわただしく表の戸があいて、転がるように跳び込んで来た若い女――息をはずませて、ピシャリ! はいって来た戸を締め切りながら、お妙は、お絃を見上げた。
「ちょっとの間、おかくまい下さいまし。お願いでございます。悪ものに追われまして――」
「何だい、お前さんは」
お絃は、思わず怖ろしい顔になっていた。
「この頃よく家ん前を迂路《うろ》ついてる女《ひと》じゃないか。どうしたっていうのさ……」
「はい――」
「はいではわからないじゃないの。悪ものに追っかけられたって、その悪ものはどこにいるのさ」
「いえ、あの、ちょうどそこまで参りますと――」
気も顛倒《てんとう》しているらしく、おどおどしているお妙に、知らずのお絃は、つづけさまに舌打ちをした。
「チッ! 何だろうねエまア焦《じ》れったい。あたしゃ気が短い性《たち》でね、ハキハキおしよ。お前さん、ちょうどそこまで参りますとッて、毎日毎晩、やたらにちょうどそこまで参ってるようじゃないか。いったいどこなの家《うち》は?」
お絃姐御にポンポンやられて、お妙は一層オロオロしながら、
「はい。わたくしは下谷の黒門町の……」
言いかけた拍子に、ガラリ格子をあけて、頬かむりの顔を差し入れたのは、村井長庵の一の子分――一の子分二の子分といっても、こいつ一人きりだが、とにかく戸塚の三次である。
藍微塵か何かに唐棧《とうざん》の半纏《はんてん》を引っかけて、鼻のさきに手ぬぐいを結んでいる。あまり好い人相ではない。
「今晩は」
今夜はいやに妙な人間が飛びこんでくる晩だと思いながら、相手がばかに慣れなれしいから、お絃も、何か喧嘩出入りのことであろう。それなら、喧嘩渡世であってみれば大事なお客
前へ
次へ
全77ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング