何とか引き分けに致そうと存じまして、つい思いついたまま呶鳴《どな》りましたような次第で、それが、計らずもお名前を詐《かた》るようなことになりまして、何とも、恐縮の至りでございます」
「それも存じておる」
「そう致しますと、他《ほか》に何も申し上げることはございませんので」
「もう何も申すことはない? フム、確《しか》とさようか」
「――――」
「その、争いを致しておったものは、何《なに》やつと何奴《なにやつ》か」
「何でも、芝の源助町とかの――」
「無形一刀、神保造酒の道場の者ども。よろしい。が、それは一方である。喧嘩には相手方があるはず。相手は何者じゃ」
 大岡様の前に、嘘言《うそ》をいって通らないことは、誰よりも一番よく心得ている金山寺屋音松である。死んだ気になって眼をつぶって、すっぱりと言った。
「その喧嘩の相手は、神尾喬之助でございました」
「そうか。神尾を助けるために、お前はわしの名を持ち出したのじゃな」
「助けると申して別に――」
「神尾は、天下を騒がし、法を愚弄《ぐろう》し、あまつさえ番衆の首を落し廻るとか大言壮語致しおる大痴《おおたわ》けじゃ。もっとも、既に二人とか三人とかその首にされたそうじゃが……音松ッ!」
「はッ」
「何故|召《め》し捕《と》らぬ?」
「何故と申しまして、別に……」
 と、言いさして、音松がふッと顔を上げて越前守を見ると、烈《はげ》しい言葉《ことば》とは正反対に、忠相はニコニコしている。
 静かな小声で、言った。
「この次ぎから、必ず召し捕れ。よいか、召し捕るのじゃぞ。召し捕る……つまり生獲《いけど》りじゃ。殺してはならぬ」
「しかしお殿様、先方は切れものを持って暴《あば》れ廻りますので、中なか召し捕りますことは、中なか――」
「困難《こんなん》か」
「へえ」
「然らば、そなたのほうで逃げろ。先方を逃がすのではない。殺してはならぬ。殺されても耐《たま》らぬから、そちのほうで逃げるのじゃ」
「はッ。なるほど」
「わかったか。わかったな。次第によっては、わしは又何度、富士見の馬場へ試乗に参ってもよいぞ。あっはっはっは」
 パチリと一つ、碁石を置きながら、
「それだけじゃ。帰れ」
 忠相が、言った。金山寺屋音松は、忠相の真意《しんい》を覚《さと》り、人間忠相に触れたような気がして、もし相手がお奉行様でなければ、音松は起って行って、
「やい、話せるぞ」と、力いっぱい背中を叩《たた》きながら大声に笑いたかった。「おめえもやっぱり、弱いほう、理《り》のある方へ味方しようてえのかい。江戸っ子だ。嬉しい江戸っ子だ……」
 が、現実にはかれは、何気なく言っていた。
「殺さねえように捕まえる。それで、相手が刃物を持っていると、こっちも刃物で抗《むか》って行かにゃならねえ」と、考え考え首を捻《ひね》って、「すると、むこうも危えし、こっちもあぶねえから、そこで、逃げるように……フウム、ところで、先様《さきさま》アいつも人斬庖丁《ひときりぼうちょう》を離したこたあねえのだから、いつも逃げ――」
 金山寺屋は、ぴったり平《ひ》れ伏《ふ》した。
「いや、解りました。解りましてございます」
 何だ、まだそこにいたのか……というように、忠相の眼が音松へ向って、
「よい、よい、行け」
 切長の眼が、射《い》るように音松の横顔に据《す》わっていた。

      三

 切長の眼が、射るように喬之助の横顔に据わっていた。
 荒木陽一郎だ。
 畳に両手を突いた不動の伏像――喬之助を包囲して、瞬間、声もなく立ちはだかっていた十三人の番士と源助町の一統の中から、ワヤワヤと声が沸いた。
「飛んで火に入る夏の虫とは、まったくうまいことを言ったものだな」
「しかし、よくもこう大勢お歴々の揃っておる場所へ、図々《ずうずう》しく現れたものじゃな」
「四番首まで討って、天下に怖いものなしと、己惚《うぬぼ》れが嵩《こう》じておるのじゃよ」
「喬之助討取策の協議中に、当の喬之助が顔を出すとは、あまりお誂《あつら》え過ぎて、呆気《あっけ》ないワ」
「が、いつの間にどこからはいりこんだのであろう……」
「そッと入り込んで、吾れわれの話に加わっておったのじゃ。それにしても、元日の時そのままに、ああして、何を言われても動かぬところ、彼奴《きゃつ》なかなか芝居気がござるテ」
 こうなれば、今でも直ぐに討ち取れると思うので、一同は喬之助を前に、にやにや笑いながら、大声に話し合っていると、実際、喬之助は、元日の時そのままに、何と言われても身動きだにしないでいる。
 いつの間にかそれは、あの、騒動の発端《ほったん》の再演になっていた。
 ひれ伏している喬之助の肩が、細かくふるえている。
「うむ、また泣いておるな」
「発見されて、ここで命を落すのが口惜《くや》しいの
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