行って、それで気が付いたのである。
その、今まで評議《ひょうぎ》をしていた末席に、ジッと畳に両手を突いて、平家|蟹《がに》のように平伏したきり動かない人物がある。
いつの間に来たのか、それとも、初めからこの部屋にいたのか、どうして今まで気がつかなかったろう?
「ウム! 誰だ、これは……」源助町三羽烏の随一、大矢内修理が、唸《うな》った。「何者じゃ?」
「御同役のお一人かな?」
穏《おだや》かに口をきいて、同じく源助町の天童利根太郎が、番士達をふり返ったが、誰も答えるものはない。
部屋の一方にズラリと立ち並んで、不気味《ぶきみ》な生物でも見るように、その一個の人物に眼を据えていると――。
畳に手を突いて動かない姿……裃《かみしも》こそきていないが、あの元日、御番部屋でそうして嘲弄《ちょうろう》を受けていた神尾喬之助と、その位置、その態度、寸分違わないのだ。その、微動だもしない伏像《ふくぞう》に対して、一同は、眼を見張ったが、こういうと長いようだけれど、ほんの二秒、三秒……五秒とは経たないうちに大声をあげた荒木陽一郎だ。この人は、荒木又右衛門《あらきまたえもん》一門の血統で、流石《さすが》に血筋は争えない。剣を取っては、番部屋第一の名があったもので、年齢は四十五、六、肚《はら》も相当に据わった、まず、御書院番士中では錚々《そうそう》たる人材だ。その、荒木陽一郎が、祖先譲りの朗快《ろうかい》な声で――と言ったところで、荒木又右衛門の声のことが記録に残っているわけでもないが、豪傑だったから、声も偉そうだったに相違ない。とにかく、決して豪快な声ではなかったと証明出来ない以上、どんなに豪快な声だったと言ってもさしつかえあるまい――ところで、子孫の荒木陽一郎は、又右衛門ほどの傑物《けつぶつ》ではなかったが、声は、素晴しく強そうなのだ。ラジオの拡声機《かくせいき》で聞く猛獣の咆哮《ほうこう》のようだ。
「神尾喬之助ッ! 面《つら》を上げろ」
あんまり上品な言葉遣いではない。が、もっとも幾分|昂奮《こうふん》しているからで……。
しかし、襖《ふすま》のまえに、畳にへばり付いている人影は、身うごきもしないのだ。顔を隠すように俯伏《うつぶ》せた額部《ひたい》に、燭台の燈《ひ》が蒼白く反映《はんえい》している。
元旦のあの時、騒ぎになる寸刻前と同じ情景だ――。
一同は、グルリと遠巻きにして立っているのだが、やがて、保利庄左衛門がズカズカと出て行って、その、ひれ伏している神尾喬之助の前に蹲踞《しゃが》んだ。
「どこからおはいりなされた? ウム? どこからおはいりなされた? ちょうどいま、貴殿、取押え方を相談致しておったところじゃよ。よい時に参られた。当方は、これだけ人数がそろっておる。イヤ、せっかくの悲願《ひがん》首蒐《くびあつ》めじゃが、その貴殿の首狩りも、あの松原氏の四番首を最後に、今宵これにて打ち切りということになりますかな」
アハハハ……面白そうに肩を揺《ゆ》すって笑った。
二
アハハハ……面白そうに、肩を揺すって笑った。
面白そうに肩を揺すって笑いながら、越前守忠相は、ジロリと金山寺屋を見据えて、次ぎの言葉を出すまで、暫らくの間を置いた。
外桜田、南町奉行大岡忠相のお役宅である。
山の手の夜は海底《うなぞこ》のようだ。その暫らくの間を埋めて、深森《しんしん》と耳の痛くなるような、音のない夜の音が聞えて来る。
と言うと、寂然《じゃくねん》として風流澄心《ふうりゅうちょうしん》の感あるが、風流どころか、金山寺屋音松は、生きたこころもない。胸は波を打ち、耳は火照《ほて》るし、眼はくらんで、冷汗が腋の下を伝わるばかり、顔も上げられないのだ。
「へえ」
と言ったきり、口をモゴモゴさせて頭を掻いていると、越前はつづけて、
「どうじゃナ、わしはまだ一度も、早朝、富士見の馬場へ試乗に参ったことはない」
「へえ」
「へえではない」
「はい」
「はいでは解らぬ」
「恐れ入りましてございます」
「恐れ入った? 何を恐れ入っておるのだ」
「――」
「われから恐れ入ったと申す以上、何か貴様よからぬことを致しておるナ」
「じつは……」
「うむ。申して試《み》い」
「はい。じつぁお殿様、こういう訳でございます、……あの晩、あっしの乾児《こぶん》のひとりが駈け込んで参りまして、富士見の馬場で大喧嘩があると申しますので、御用をうけたまわっております手前、早速に人数を集め、仕度を整《ととの》えて繰り出しましたところが――」
「ウム、そこまではこの越前も存じておるぞ」
「さようでございますか。そこで、富士見の馬場へ飛びこんでみますと、大分の人数が渡《わた》り合《あ》っておりますので……」
「その事も存じておる」
「へえ、そこでその、
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