であろう」
 飽《あ》くまでも衆を頼んでいる一同である。やにわに、笠間甚八がズカズカと出て行って、
「泣きおる。それは面白い。一つその口惜しがっておる面を見てやれ」
「そうじゃ。そうじゃ」日向一学が、止せばいいのに背後のほうから唆《け》しかけて、「髷《まげ》を掴んで引き起すのじゃ」
 中にひとり、元日の時の成往《なりゆ》きを覚えているのがあって、
「ナニ、それは、其奴《そやつ》の法《て》じゃ。泣きよると見せかけて笑いおるぞ」
 大勢集まれば、気が強くなるに決まっている。殊に、名打ての三羽烏をはじめ、源助町の連中も十数名|控《ひか》えているのだから、気の強いことこの上無しだ。
「髷を掴《つか》んで引き起すのじゃ」
 一学が言い切らぬうちに、
「構《かま》わぬ。コヤツ……」
 と、呻《うめ》いた笠間甚八である。髷をひッ掴んで顔を釣り上げようと喬之助のほうへ手を伸ばした。
 その時である。
「うふッ」叩きつけられたように伏していた喬之助が、噴飯《ふきだ》したのだ。「あははははは、御苦労な! 土偶人形《でくにんぎょう》の勢揃い……カッ! これでも喰《くら》えッ!」
 同時だ。哄笑と一緒に伸び切った喬之助の上半身だ。ぱアッ! 片膝が前へ出たと見えたとき、そして、右手が刀の柄へ行ったと見えた刹那《せつな》――。
 喬之助は、抜身《ぬきみ》の一刀を糸で腰に釣って、それに、羽二重《はぶたえ》の単羽織《ひとえばおり》をフワリと掛け、刀身をすっかり隠して、鞘《さや》に納まっている如く見せかけていたのだ。それが今、手が柄に掛ると同瞬《どうしゅん》、そのまま撥《は》ね上げればいいのだ。刀は、みずから糸を断ち、羽織の裾《すそ》を潜って、眼前に躍り出る。その刀身に、スウーッ! と血糊が走って……虚心流《きょしんりゅう》竹輪切《ちくわぎ》りの一剣だ。
 今まで何か饒舌《しゃべ》って動いていた甚八の首が、宙に弧《こ》を描いてドサッ、畳を打った。
「五番首――笠間甚八殿」
 喬之助は、うめいた。静かに立ち上っていた。切り落したような沈黙だ。その沈黙の中で、喬之助は、血を引いた抜刀を片手に、ソロリ、ソロリと退って、障子に手をかけて縁側へ出ようとした。
 それで初めてわれに返ったように気のついた番士一統と源助町の勢である。池上新六郎、山路重之進、大矢内修理、比企一隆斎、鏡丹波らを先頭に、抜き連《つ》れて畳を蹴《け》り、喬之助に追いすがった。が、喬之助は、手早く障子をあけて、消えるように縁へ出る。と、同じ秒刻《びょうこく》に、反対側の、奥の間へ通ずる襖がサラリとあいた。声がした。
「おい、ここだ。ここだ」
 ギョッ! として振り返った一同の眼にうつったのは、やはり、神尾喬之助……。
 神出鬼没《しんしゅつきぼつ》という言葉があるが、これはまたどうしたというのだ!
 同じ人間が、出て行くと同時に、反対側から、はいって来る――。
 一同は、廻れ右をして奥へ斬尖《きっさき》を揃えながら、コソコソ顔を見合って、首を捻《ひね》った。

      四

 村井長庵は、ピシリ! と大きな音を立てて、裸の尻ッぺたを叩いた。赤い血が、小さな花のように咲いて、蚊の屍骸が一匹、押し葉のように潰れて貼りついていた。
 長庵は、舌打ちをして、蚊の屍体を摘《つま》み上げた。
「腹に縞《しま》がある。藪っ蚊だ。こいつは非道《ひで》えや」
 うす闇黒《やみ》の中で、ひとり言をいった。言いながら、医者だけにクスリと笑って、
「藪のところへ、藪ッ蚊とは、この野郎、洒落《しゃれ》たやつじゃアねえか」
 つまらないことに感心をして、独りでニヤニヤ笑っているのだが、自分の事を藪と知っているのは、長庵、悪党だけに中なかおのれを心得ている。
「ただの一夜を七夕《たなばた》さまが、それも雨ふりゃ逢わずに帰る。何と逢瀬《おうせ》があわれやら――」
 七月のことで。
 長庵はかく低声に唄いながら、その、夕方になっても未だ灯もつけない、空家《あきや》同然のおのが住居の中を、珍しそうに見廻している。
 麹町平河町一丁目。町医長庵が家。
 打ち水、蚊やり……と世間さまは暑熱《しょねつ》と闘うに忙しいのだが、この長庵の宅と来たら、これはまた恐ろしく涼しい限りで、家具と名のつくものは愚《おろ》か、医者の道具らしい物も何一つもなく、まことにサッパリと夏向きである。おまけに、本人の長庵はこの通り丸裸で、それでも、坊主頭に頭巾《ずきん》だけは被《かぶ》ったままで、六尺ひとつ、壁に凭《よ》り掛って、先刻からモゴモゴ何か言っている。
 柄になく、思い出に耽《ひた》っているところ……どうもお金がなくなると思い出にふけるのが、この長庵先生の習癖《くせ》のようで。
 大岡越前守忠相様が、南のお町奉行を二十|年《ねん》御勤役《ごきんやく》にな
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