、むずかしい問題で頭を捻《ひね》っている時の習癖《くせ》で、碁盤を前に、独り碁……と言っても、法どおり石を置いて、攻め手守り法《て》を攻究《こうきゅう》しているのではない。ただ、黒白の石を掴んでサラサラと盤に落とし、あるいは黒を動かし、時には白石を種々に移して、言わばでたらめで――そのあいだには、これも沈思《ちんし》の時の癖で、越州《えっしゅう》はしきりに爪を噛んでいるのだ。澄々《ちょうちょう》たる碁石《いし》の音を楽しんでいるようにも見える。こうして何か考え事があるとき、盤に向って碁を弄《もてあそ》びながら、その間に策を講ずるのが、この大岡越前守忠相のやり方だった。
で、そうして独り何事か考えに沈んでいるところへ、呼びにやった金山寺屋の音松が来たのだ。夜、急にお奉行様のお役宅から、お召立《めした》てになったのだから、一体何の御用だろうと思う先に音松は、もう自分が罪人にでもなったようにがたがた震えている。町の一岡っ引きのところへ、お奉行様からお使いを戴くなどと、まさに前代未聞《ぜんだいみもん》に相違ない。すっかり恐縮して外桜田《そとさくらだ》のお屋敷へ参上してみると、誰かお手附《てつき》の御用人にでも会って何か話があるのだろうと思って来たのが、直接殿様にお眼通りするのだという。狼狽《ろうばい》の極《きょく》、逆上《ぎゃくじょう》したようになっている音松を案内して、若侍は、予《かね》て命令《いいつ》けられていたものらしく、ドンドン奥へ通って行く。生れてはじめてこういうお屋敷の奥へはいったので、音松はキョロキョロしながらついて行くと、人の気はいもなくシインと静かである。これは、何事か密談があるとみえて、越前守は人を遠ざけて音松を待っているのだが、やがて、お廊下の突き当りの一室の前へ出ると、室内《なか》にいらっしゃるからあけてはいるように、……そう眼顔で知らせて若侍はまるで逃げるように、サッサと引っ返してしまう。
ひとり残《のこ》された金山寺屋音松である。
どっちを見ても、暗いお部屋が並んでいるだけで、人影はおろか、物音一つしない。ただ、眼の前の障子に明るい光りがさしている。この室内《なか》に、南町奉行大岡越前守忠相様がいらっしゃる――そう思うと音松は、そこのお廊下にべったりすわったきり、すっかり固《かた》くなってしまって、中なかその障子に手をかけることが出来ないのだ。
……こんなに静かだが、これで、ほんとにこのお部屋にどなたかいるのかしら? ふと音松が首を傾《かし》げた時、まるでその疑問に応《こた》えるように、室内から澄んだ碁石の音が聞えて来た。
いつまでもこうしてはいられない。よし! ひとつ思い切って――と、勇気をふるい起した音松が、
「ごめん下さいまし」
一世一代の改まった声を出して、スルスルと障子を開けながら、
「へへへ、これはお殿様、まことに恐れ入りますでございます」
変な挨拶だ。しどろもどろで、自分でも何を言っているのかわからない。ふだんぞんざいな口をきいている人間が、相手もあろうにお奉行様のまえへ出たのみか、これから膝ぐみで話をしようというのだから、可哀そうに、律儀者《りちぎもの》の音松は、スッカリ興奮して、全身に汗を掻くばかり、やたらに額部《ひたい》をたたみにこすりつけて、何かモゴモゴ言っていると、
「あとを閉《し》めてはいれ」
お奉行所でよく聞いたことのある大岡様の声だ。ハッとしてよく顔を上げる。むこうに、碁盤《ごばん》を前に、これもお奉行所で見たことのある、下ぶくれのした豊かな顔がある。言われたとおりあとを閉めて、へへッ! と、もう一度|平伏《へいふく》した時、大岡様が言い出していた。
「金山寺屋の音松と申す者だな」
「はい。申し遅れまして相済みません。日本橋長谷川町にて御用をうけたまわっております音松というやくざ者でございます」
「まあ、そう四|角張《かくば》らんでもよい」忠相は声を笑わせて、「もそっと寄れ」
「へえ」音松は一寸五分ほど前へ出ながら、「急のお召しで、何の御用かと宙を飛んで参りました。わっしみてえな者に、直接《じきじき》のお眼通りで、何とも――」
しきりに頭をかいていると、越前守がいきなり言い出した。
「音松……と申したナ。わしは何だぞ、まだ一度も、早朝、富士見の馬場へ試乗に参ったことはないぞ」
四
池上新六郎、山路重之進、飯能主馬、横地半九郎、妙見勝三郎、日向一学、保利庄左衛門、博多弓之丞、笠間甚八、峰淵車之助、箭作彦十郎、荒木陽一郎、それに、屋敷のあるじ長岡頼母。
及び、源助町からは、三羽烏の大矢内修理、比企一隆斎、天童利根太郎。その他、春藤幾久馬、遊佐剛七郎、鏡丹波らほか数名。大一座である。
酒肴《しゅこう》が出ると座が乱《みだ》れて、肝腎の相談が出来
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