寒い半暗《はんあん》に沈んでいるのだ。
頼母は、呪いに縛られたよう……いっぱいにひらいた眼に障子の忌中札を白眼《にら》んで、まだ身うごきも出来ずにいる。
長岡頼母――三十五、六の男盛り。背の高い、肩の張った、堂々たる人物である。苦味走《にがみばし》った、白眼《にら》みのきく顔をしていて、番士中でも口利き役の、指折りの一人だった。宝蔵院流《ほうぞういんりゅう》の槍の名誉……名誉というほどではないが、それでも、毎朝槍|捌《さば》きの稽古には、たんぽの先で、若党の二、三人は突きのめそうという、それだけの心得はあったもので、刀は無念流、このほうだって、試合に出たと思うと、参ったッ! で引っ込み組ではなく、その日の出来によっては大いに暴れることもある。まず、一かどの武士だった。
いま、この忌中札を凝視《みつ》めて放心《ぼんやり》立っている頼母の網膜《もうまく》に、あの、元旦の殿中の騒ぎが浮び上って来た。
この自分も、あの喬之助いじめに、確かに一役受け持ったのだ。
大目附近藤相模守が、咳払いと共に下城したあと、ちょっと森閑《しんかん》としている時だった。
御書院番衆は、やれやれと寛《くつろ》ぎ出して、急にそこここに話声も起り、中断されていた喬之助いじめをまたはじめようとそっちのほうを見ると、もう皆頭を上げているのに、喬之助だけは、まだ平蜘蛛《ひらぐも》のように、畳に手をついている。
眼ひき袖引きして、一同は喬之助を取り囲んだ。
箭作彦十郎が、へんにねっとり[#「ねっとり」に傍点]した口調で、言ったのだった。
「神尾氏、居眠ってござるかの? あははは、その初夢に拙者もあやかりたいほどじゃが、ここは殿中、さまで疲労しておらるるなら、悪いことは言わぬ。下城《さが》って御休息なされい」
そうだ、あの時。
「疲労?」と、叫ぶように頓狂《とんきょう》な声を揚げて乗り出したのは、この自分だった。「疲労か、疲労はよかったな。いかさま、園絵どのと番《つがい》の蝶では、如何《いか》な神尾氏も疲労されるであろうよ」
下卑《げび》た言い草だった。二、三の者は笑い声を立てたが、戸部近江は、明白《あきらか》に厭な顔をした。一層憎悪に燃えるように突っ起ったまま、喬之助を見下ろしていたっけ……。
あれが、近江の胸底にある喬之助への嫉妬を掻き立てて、ああ執拗に喬之助を玩弄《がんろう》しつづけ、ついに大事……あの刃傷《にんじょう》とこの騒動を捲き起すに到ったのだ。
自分にも、責任がある。今となって、長岡頼母はそう思う。
が、責任はあっても、それとこれとは違う。一番首、二番首、三番首、四番首――大迫玄蕃殿、浅香慶之助殿、猪股小膳殿、松原源兵衛殿……そして、この、吹きまくる大暴風雨のような恐慌《きょうこう》の最中に、又してもこの脅威挑戦《きょういちょうせん》――忌中だが、こんどはじぶんの前に現れたのだ。
忌中、とは何だ?
生きている、死人だというのかッ!
五番首は、この長岡頼母だというのかッ!
何を! 四番首までは知らぬこと、五番目のこの首には、生憎《あいにく》と、いささか筋金が入っているのだ。神尾喬之助、如何に豪剣なりといえども、よも鬼神羅刹《きじんらせつ》の類《たぐい》に化した訳ではあるまい。そう容易《やすやす》とこの首を渡しはしないのだ。来るがよい! 面白い! 来いッ……。
と、心中に叫び揚げて、絡《から》むような恐怖を払いすてた長岡頼母である。別室には、二十余名の同僚も集っているのだ。ナアニ――! と、急に平素の豪快な頼母に復《かえ》ったかれ、
「いつ書いて貼ったものか、見てやれ」
つぶやきながら、手を伸ばして忌中の文字に触った。と、どうだ! 指さきに墨がつくのだ。字が濡れている。まだ乾《かわ》いていないのだ……いま書いて、貼ったばかり!
とすると、本人はまだここらにいるに相違ない。そうだ。この室内に、この、深として燭台の燃えさかる居間の中に――頼母は、引き抜いた一刀を右手に構えて、全身の神経を緊張させながら、一分、二分、三分、五分、一寸、スルスルと障子を開けにかかった。
三
スルスルと障子を開けて顔を出した金山寺屋の音松に、忠相《ただすけ》は、にこやかな笑顔を向けて、声だけは、叱咤《しった》するように激しかった。
「あとを閉《し》めてはいれ」
江戸南町奉行《えどみなみまちぶぎょう》、大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》忠相である。外桜田《そとさくらだ》のお役宅《やくたく》、書院作りの奥の一間だった。
夜である。きょう数寄屋橋畔の奉行所から帰った忠相は、何か思うところあってか、日本橋長谷川町へ下僕を走らせて、同町内の目明し親分、金山寺屋の音松をお呼び立てになったのだった。それきり自身は、この奥の書院に端坐して
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