之助と音松と眼が合うと、多勢の捕方をうしろに押さえて動かさない音松、それとなく頭を下げて、早くお帰りなさい、と眼顔《めがお》で知らせた。
「うむ、あれはいつか、じぶんを右近殿と言いなして、黒門町において危いところを救ってくれた目明《めあか》しである。ハテ、そも何の心あって重ねがさねこの恩を垂れてくれるのであろう――」
 と、不審に感じながらも、喬之助は音松に、遠くから慇懃《いんぎん》に挨拶して、魚心堂先生とお絃と三人づれそのまま朝の巷《まち》を神田帯屋小路へ帰ってみると……右近はもう帰って来ている、平気な顔だ。
「やア、三人お揃いで源助町を食いとめてくれたのだろう。そうであろうと思っておった」
 格子をあけてはいって来たお絃、いきなり鼻をクンクンさせて、
「お前さん、焦臭《こげくさ》いねえ」
「あッ! そうだった! コリャいけねえ」
 あわてた右近が台所へ飛び込んで、釜のふたをとると、あたら白い御飯が、狐色どころか真ッ黒ぐろに焦げているので――散々お絃に叱られながら、
「あまり腹が減ったから、独りで炊《た》いてみたのだが……」
 右近は頭を掻きながら、筆を持って来て、壁の貼紙の松原源兵衛の所へ線を引いて消した。
「四番首――ハッハッハゆうべは一人だった」
 こうして富士見の馬場の剣林もそのまま四|散《さん》したのだったが、片や神尾喬之助と喧嘩渡世の夫婦、それに、変り者の魚心堂居士、片や神保造酒を筆頭に、大矢内修理、比企一隆斎、天童利根太郎の三羽烏の率《ひき》いる、遊佐剛七郎、春藤幾久馬、鏡丹波ら以下百に余る源助町無形一刀流の面々、その背後の御書院番頭脇坂山城守及び残余十三名のお帳番士一統……剣の色彩は、ここに敵味方ハッキリ二つに別れて、物語は進んで往く。
 ――というところ迄が、前回「生きている死人」の巻の荒筋《あらすじ》だったが。
 さて、引き続いて……。

      二

「ウウム! このおれが、生きている死人とはッ」
 長岡頼母、思わず蒼白になっていた。自分で見つけたのだ。居間《いま》の障子《しょうじ》、その縁に向ったところに、墨黒ぐろと半紙に大書した貼紙《はりがみ》がしてあるのだ。
[#ここから5字下げ]
┌────┐
│ 忌中 │
└────┘
[#ここで字下げ終わり]
 と、読めるのだ。頼母は、縁側の板に釘付《くぎづ》けになったように暫らく動かなかった。動けなかった。
 江戸の春は老けた。
 やがて青葉若葉の初夏――それも今は、町の各所に打水がにおって、もう苗売《なえう》りではない、金魚売り、すだれ売りだ。来るべき猛暑《もうしょ》を思わせて、何となく倦《だる》い日が八百八町につづいている頃、本郷は追分のさき、俗に鰻畷《うなぎなわて》と呼ばれるところに。
 がっしりした瓦屋根と立樹を囲むなまこ塀の一塀、それは西丸御書院番士、長岡頼母の屋敷である。
 今宵は、この長岡の家に、残りの番士一同と源助町の助勢の顔もちらほら見えて、大一座、わいわい言って神尾喬之助討取策を評議していたのだ。その最中、ちょっと自室から取って来る物があって、その寄り合いの席の奥座敷を中座し、何ごころなく、この自分の書院へ来て見た主人の頼母である。障子に手をかけてはいろうとして、発見したのだ。ギョッ! として手を引くと同時に、頼母は吸い込まれるように、その貼札に見入っていた。
 室内は、明るい。燭台《しょくだい》が点《とも》し放しになっているのだ。その、灯を背負って赤い障子に貼られた忌中《きちゅう》の文字は、大きな達筆である。嘲笑《あざわら》うように、また揶揄《やゆ》するごとく、くっきり浮き上っているのが、まことに凶事《きょうじ》そのもののように、不気味に見える。
 障子をあけてはいる。そんなどころではない。室内《なか》にいるかも知れないのだ。この戸ひとつがくろがねの――容易に開けられる障子ではない。頼母は、衆議をぬけて自身ここまで取りに来た、その品物が何であったかさえケロリ忘れて、退《ひ》くも進むもならない。茫然《ぼうぜん》自失の態《てい》……気がつくと、シインと全身に汗を掻いていた。
「何やつのしわざ?――何やつとは、勿論《もとより》、きゃつのしわざに決っておるが、この厳戒の当屋敷へ、しかもこの集会の最中、一体どこから忍び込んで、そして今は、そもどこに隠れているのであろう――?」
 これが、混濁《こんだく》した頼母のあたまへ、最初に来た質問の一つだ。同時にかれは、反対側の雨戸へ、張りつくように身を引いて、じイッ、聞き耳を立てながら、長い廊下の左右へ眼を配った。
 遠く会議の席からかすかに、人声が伝わって来るだけ、何の変異《へんい》もなく、静まり返っている。部屋の中から射す灯《あかり》で、そこらは茫《ぼう》ッと明るく、廊下の先は、夏の夜ながらうそ
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