げ》なかった。アハハハハ」
 松原源兵衛も、やっと蒼白い笑いをうかべたが、はてナ? と首を捻《ひね》って、
「しかし、今の先まで、屏風は、逆《さか》さになぞなっておらんようだったが……」
 源助町助勢の長《ちょう》、遊佐剛七郎がヌックと起《た》ち上った。剛七郎|身長《みのたけ》六尺近く、有名なムッツリ屋、周防《すおう》の国は毛利左京亮《もうりさきょうのすけ》、府中《ふちゅう》五|万石《まんごく》に後足《あとあし》で砂をかけたという不忠[#「不忠」に傍点]の浪人――ナニ、変な洒落だ? とにかく、コイツ面倒臭いと思ったのだろう。
「直《なお》せばよいではないか」
 ツカツカと屏風のほうへ行こうとする。半九郎が停めた。家主《あるじ》の責任というとこだ。
「あアいや。下女《げじょ》めの粗相《そそう》、呼んで直させまするで、そのままに、そのままに」
 ポンポンポン! 手を叩く。
「コレヨ、誰ぞある――」
 春藤幾久馬と丹ちゃんは、その間に、手酌《てじゃく》でせっせと傾《かたむ》けている。

      二

 侍女の一人が敷居ぎわに手を突いた。
「これ、屏風がさかさまになっておるではないか」半九郎は顎をしゃくって、「何という不注意だ。すぐ直しなさい」
「でも、旦那さま」婢《おんな》は不思議そうに、「わたくしは確かにちゃんと立てて置いたのでございますが」
「そうだ、そうだ」どうも余計な口をきくのは、いつも丹ちゃんのようで、「なア、おめえが悪いんじゃアねえ。屏風が勝手に……」
 半九郎は、尚もキッとなって婢を睨《ね》めつけた。
「イヤお前の粗忽《そこつ》である。さっさと直しなさい」
 ハイと口の中で答えた婢、六人の眼を集めて、部屋の隅の問題の屏風に手をかけた。女性が愕《おどろ》いた時の声は、今も昔も大概きまっている。絹を裂《さ》くように叫んで、退《の》け反《ぞ》った。
「あれ――イッ!」
 同時に、ぱッ! 向う側から屏風が倒れて、ムックリ坐り直した一人の人物がある。
 肩に継布《つぎぬの》の当った袷《あわせ》一枚に白木《しらき》の三|尺《じゃく》、そろばん絞《しぼ》りの紺手拭で頬かむりをして、大刀といっしょに両膝を抱き、何かを見物するように、ドッカリ腰を押しつけているのだ。侍とも無頼漢とも知れない、まことに異形な風俗、呑気な顔で六人を見わたして、ニコニコ笑った。
 思わず、さッ! と反対側の襖ぎわに並び立った六人である。銘《めい》めい柄《つか》を叩いて、一時に喚《わめ》いた。
「ナ、何奴《なにやつ》ッ!」
「神尾だ……ナ」と確かめて、「どこからはいった」
 感心したように訊《き》いたのは、家主の半九郎だ。バタバタバタ、廊下を転《ころ》げ去って行く侍女の跫音《あしおと》がしていた。
 源助町の丹ちゃんには、怖《こわ》いものがない。一歩前へでた。
「お前さんかえ、喬之助さんてエのア、大《てえ》した評判だぜ。何かえ、お城番士の首を十七、片ッ端から落して廻るんだってえじゃアねえか。止しな、よしな。もう三人首にしたんだから、悪いこたア言わねえ。ここらで負けて置きなってことよ。それがおめえの、身のためてエもんだぜ」
 縁日《えんにち》の植木でもひやかすようにしきりに、負けろまけろと言っている。
 すると、元番士神尾喬之助……ではない、紛《まぎ》らわしいが、これは、喬之助に化《ば》け澄《す》まして――ナニ、化けなくても、生地のまんまで喬之助ソックリなんだが、その上、斬込みの時の着付けまで寸分同じな、神田は帯屋小路、今評判の喧嘩渡世人、茨右近先生だ。ニッコリ笑って、呆気《あっけ》に取られている六人へ、不思議な、呪文《じゅもん》みたいな文句《もんく》を唱《とな》えはじめた。
「アハハハ、逆《さか》さ屏風とは驚いたろう。裏の坊主が屏風に上手に坊主の絵を描《か》いた。これを早口にいってみろ。俺が今いう。いいか最後の上手に坊主の絵を描いたッ……その描《か》いたッ、で一本いくぞッ!」

      三

 晩春《ばんしゅん》の夜、三|刻《こく》の静寂《せいじゃく》を破《やぶ》って、突《とつ》! こぶ寺うらに起る剣々相摩《けんけんそうま》のひびきだ。
 神尾喬之助と茨右近は、知らずのお絃や園絵までが間違えるほど、似ていることは似ているのだが、違うところは違う。どこがどう違うかと言えば、第一、声の調子が少し違う。それから、刀法《とうほう》……虚心流と観化流。
 虚心流は神尾喬之助。
 観化流は茨右近。
 つるぎの使い方で知れる。喬之助の虚心流は、ジワジワと徐々《じょじょ》に動き、右近の観化流は[#「観化流は」は底本では「観化法は」]、静中観物化《せいちゅうかんぶっか》、しずかなること林のごとき中から、やにわに激発《げきはつ》して鉄を断《た》ち、岩を砕《くだ》くのである。
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