ごとく身じろぎもしない。
「特製の頭だな。名は何というか」
男が感心した。
「茨右近」
「ナニ、茨右近? 喧嘩渡世の茨右近か」
「さようでござる。して、おん身《み》は?」
「吾輩か。吾輩は魚心堂《ぎょしんどう》じゃ」
「ほウ、あの、いたるところ釣りをして歩いて巷に道を説くという、今評判の魚心堂先生でござったか」
「そうじゃ、その傑《えら》い先生の魚心堂である。どうだ、降参するかナ」
「何の、朝まででも綱引《つなびき》だッ! 来いッ」
「こいつが、此奴が――よし、やろう!」
どっちも強情我慢の変物同士《へんぶつどうし》だ。曳《えい》ッ! うむ! 喧嘩右近と魚心堂先生、一進一退、三|更《こう》の街上に不思議な綱引きをつづけている。
知らずのお絃は、あきれ返って見物しながら、呑気なもので、応援団だ。
フレイフレイ右近! そんなことは言わない。
「ソラ、お前さん、しっかり!」
六
「どうだ、定公《さだこう》、ここでちょっと休んで行こうか」
「そうですね。それがようございますよ。若旦那――これからお屋敷へ上ったって、脇坂様は名打《なう》てのけちん[#「けちん」に傍点]坊だ。お茶いっぱい飲ましてくれないにきまってますからね」
「しッ! そんなことを大きな声でいっちゃア不可《いけ》ない。どうもお前をつれて歩くと、口が悪いんで冷《ひや》ひやするよ」
「へえ、夏向きのお供でござい」
「冗談じゃアないぜ。ひょっとして、脇坂様御家中の方のお耳にでも入ったら、どうするのだ。喩《たと》えにもいう。口はわざわいの因《もと》。ちと気をつけな」
「ヘイヘイ、物いえば口びる寒し冬の風」
「ちッ、言うことが一々間違ってる。それも言おうなら、物いえば口びる寒し秋の風、とナ」
「秋よりも冬のほうが寒いや」
「戯《ふざ》けなさんな。とにかく、ここで咽喉を潤《うるお》して行こう」
「うフッ、明日は雨だい。しわんぼうの筆幸が茶店をおごるなんて――後《あと》が怖いぞ」
「何をブツブツ言ってるんだ」
「イエナニ、こっちのことで……若旦那、この腰掛けへ陣取りましょう。ここなら、表を通る別嬪《べっぴん》が一|目瞭然《もくりょうぜん》――」
「厭なやつだな、子供のくせに」
「子供だ子供だと思っているうちに――」
「定公、うすッ気味の悪い声はしまっときナ」
「若旦那、お出初《でば》なを二つ頂きましょうね。それからお口よごしには何を……」
「殴るよ。じっさいお前は老成《ませ》ているね。口を利いているのを聞くと一人前だ」
「それでいて仕事は半人前、食うほうは三人前――われながら不思議の至り……」
市ヶ谷やきもち坂の甲良屋敷へ差しかかろうとする馬場下《ばばした》の清玄寺前、角に腰掛茶屋が出ている。
無駄口を叩《たた》きながら、そこへはいって来たのが、下谷長者町の筆屋幸兵衛、筆幸という、その息子で幸吉。黒門町の壁辰の娘お妙に恋をして、思いの通らぬところから、甲良屋敷の脇坂山城守に訴人《そにん》をしたが、人ちがいということになって面目玉を踏み潰した生《なま》ッ白《ちろ》い若旦那だ。今日は、十五、六の小僧で減らず口のチャンピオンとでも言うべき定公を供に、もう一度脇坂様へ取り入ろうと、お贈《つか》い物を持って出かけて来たところ。
泰平つづきで、役人は腐敗しきっている。もっとも疑獄連発《ぎごくれんぱつ》のこの頃のようなことはないが権門賄賂《けんもんわいろ》は公然の秘密だった。長崎奉行は二千両、御目附は千両という相場《そうば》が立った位で、いまこの、筆屋の幸吉が定公に担《かつ》がせて持って来ているものは、一見|膳部《ぜんぶ》のような箱だが、これは膳にして膳に非《あら》ず。なるほど箱の中には高脚《たかあし》つきの膳が入っていて、膳の上に吸物、さしみ、口取り、その他種々の材料をはじめ庖丁|俎板《まないた》まで仕込んである。花月《かげつ》の夜《よ》、雨雪風流《うせつふうりゅう》の窓《まど》にこれをひらいて、たちまち座を賑わそうというのだが、これは膳の上のはなしで、その膳の下には、いつどこで開いてもたちまち座を賑わすに足る、小判の山がうず高く積んであろうという、膳の上よりも膳の下が目的《めあて》ということは、贈るほうも贈られる方も、不言不語《いわずかたらず》、ズンと飲み込んでいるのだから、誠に重宝《ちょうほう》な品物で……。
幸吉と定公。
そいつを萌黄《もえぎ》の風呂敷包にしてここまで持って来て、もう脇坂様のおやしきは眼の前だからと、こうして馬場下の茶店に腰を下ろし、茶を飲む。菓子を摘《つま》む。定公なんか、
「茶腹《ちゃばら》も一とき、アアもうダブダブになっちゃった」
というさわぎだ。
あらたに油渡世をもはじめたについては、伊豆伍を蹴落して、御書院番頭脇坂山城守さまのお
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