お許しを脇坂《わきざか》様まで願い出ようということになったのじゃ。ソ、それも、かく申す拙者が発起人《ほっきにん》でナ、ま、喜んで下され、決まりましたよ」
 喬之助は、無言である。依然《いぜん》として、そここことなく見廻して笑っているのだ。
 笑っているので、段々きいて来たかと思った玄蕃、今にも用人《ようにん》どもがやってくるであろう。そうしたら、サッと室外《そと》へ飛び退《の》こうという心構え、チラ、チラと廊下の方へ眼を配りながら、
「わしらも、後悔《こうかい》しておる。ちと悪ふざけの度が過ぎました。それも、仲間《なかま》うち――と思えばこそ、まったく、貴殿のことは、拙者《せっしゃ》など、失礼ながら、弟のように思っておりましたからな。それでああいう冗談も出来たのじゃが、他人と思えば、ゆめにも出来ぬことじゃ。冗談――と言えば、冗談から駒《こま》が出ましたなア。ほんとに、冗談から出た駒じゃ。しかし、貴殿は大変でござったろう? どこにおられた?」
 喬之助は、答えない。
「実はナ。あれからすぐ、貴殿に詫《わ》び状を入れようというので、拙者など、率先《そっせん》してゆくえを捜《さが》したが、どうも弱った。皆目《かいもく》影を見せんとは、人が悪いよ、貴殿も」おかしくもないのに、笑いを揺《ゆ》すり上げて「人にも聞いて下され、貴殿は御存じあるまいが、拙者は常に貴殿の味方《みかた》でござったよ。一度、かようなことがござった。貴殿の硯《すずり》に水が切れておったのを、これもナ、ほんとのことは、かの近江めが、わざと水を捨てて硯を乾《ほ》しおったのだが、そうして置いて、何と、ひどいやつではござらぬか。貴殿の登城を待ってウンと油を絞《しぼ》って呉れると言いおるから、わしが、見るに見兼て、そっとその硯へ水を注いでおいたのじゃ。するとそれを近江めが見|咎《とが》めてナ、吐《ぬ》かしおったよ。大迫氏、神尾はあんたの親戚《しんせき》にでも当るのかな――親戚《しんせき》、うわッはははは、わしとあんたが親戚、さよう、親戚のようなものでござる。拙者は、神尾うじが大好きなのじゃ――こう答えたらナ、近江のやつ、二|言《ごん》もなく、あのドングリ眼《まなこ》をパチクリさせて黙《だま》りおった。いや、見せたかったよ。貴殿」
 床の間《ま》に刀に腰《こし》かけたまま、相変らずニコニコしている喬之助の口から、思い出したような一語が流れ出た。
「首――」

      七

「えッ! 首?」
「首じゃ、首じゃ、首じゃア……一番首、二番首、三番首と十七の首じゃア!」突如《とつじょ》起《た》ち上った神尾喬之助、晴ればれと哄笑《こうしょう》して、「わハハハハハ、首が転《ころ》がる。首がころがる。どこに? そこに、そこに、ソラ、そこに――」
 あッと言う間に、すらり抜いた刀を、ブランと片手にぶら提《さ》げて、喬之助は、あらぬ方を見詰《みつ》めて立っている。その眼には纏《まとま》りがなく、着物の前が割れて、だらしなく下着《したぎ》が見えているのだ。言うことばも唐突《とうとつ》で、何だか辻褄《つじつま》が合わないよう――なので、大迫玄蕃は、いっそうゾッとして二、三歩、あとへ退った。
 狂気《きょうき》? そうだ。この神尾喬之助は、発狂しているに相違ない。
 それなら、尚《なお》のこと。
 いやが上にも下に出て、とにかく、人が来るまでなだめて置くのが上分別《じょうふんべつ》と思ったから、大迫玄蕃も一生懸命だ。
「いやア、よく来た。よく来なすった。昔の友達《ともだち》を忘れずにナ、ありがたい」あんまりありがたくもないが、
「マ、そ、その、人斬庖丁《ひときりぼうちょう》という物騒《ぶっそう》なものを納めなされ。そして、そして、何なりと、ゆっくり話を承《うけたま》わろうではござらぬか」
 喬之助は、春の野に蝶を追うような様子で、フラフラと泳《およ》ぐように、前へ出て来た。パラリ、結び目の解けた手拭の端《はし》を口にくわえて、やはり、右手《めて》にはだらりと抜刀《ぬきみ》を提《さ》げている。虚《うつ》ろな表情《かお》だ。口走るように、言った。
「首をくれ! よウ、その首をくれエ!」
 ぎょッ! とすると玄蕃、思わず自分の首筋《くびすじ》へ手をやった。が、よく見る迄もなく、これはいよいよ気狂いである。神尾喬之助は、公儀《こうぎ》の眼を潜《くぐ》って逃げ隠《かく》れているうちに、心労《しんろう》のあまり、気が狂《ふ》れたのだ。と、思ったから、きちがいなら、きちがいで扱いようがある。もう何も怖るる必要はない。ただ、相手に白刃《はくじん》があることだが、何とか欺《だま》して取り上げる工夫《くふう》はないかしら?――気違いに刃物、これほど危いものはない。待てよ。いきなり横あいからでも組み付いて――と、玄蕃、隙
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