《すき》を窺《うかが》ってじいッ――見つめているうちに、かれもまた一|廉《かど》の武芸者《ぶげいしゃ》、ただちに看破《かんぱ》出来た。
もしこの神尾喬之助が真《しん》の狂人《きょうじん》なら――。
第一、こうして飽《あ》くまでも床の間を背に、玄蕃に刀を執《と》らせないように用心を払う訳もないし、何より、身体に隙《すき》があるはずである。が、今、そうして保名《やすな》狂乱もどきにボンヤリ突っ立ってる喬之助には、玄蕃の剣眼《けんがん》から見て、正に一|分《ぶ》一|厘《りん》の隙もないのだ。
全身これ隙のごとく見せかけて、そうそうろうろう、つまずくように、爪探《つまさぐ》るように、ソロソロと歩いて来る――のだが、全身これ剣精《けんせい》、構えのない構えは刀法の秘粋《ひすい》である。それにピッタリ当てはまっているのだから、神尾喬之助、狂《くる》ったと見せて、狂ったどころか、内実は虎視眈々《こしたんたん》、今にも、長|刃《じん》、灯《ひ》を割《さ》いて飛来《ひらい》しそう……。
いけない! 先《せん》を越《こ》せ! と思った玄蕃、叱咤《しった》した。
「僞《にせ》狂人! 尋常に斬《き》り込んで来いッ!」
その、来いッ! が終った秒間《びょうかん》、フッ! 喬之助の吹く息と倶《とも》に[#「倶《とも》に」は底本では「偖《とも》に」]、落ちた――漆黒《しっこく》の闇黒《やみ》が室内に。
同時、ドサドサッと畳を蹴《け》る音。白い線が二、三度上下に靡《なび》いて、バサッ! ガアッ!――と軋《きし》んだのは、骨を断った響《ひび》きか。
うわあッ! と直ぐ、あとは、よよ[#「よよ」に傍点]と許りに悲泣《ひきゅう》する小児のような泣き声。
終始、喬之助は、掛声《かけごえ》ひとつ発しなかった。
八
「殿様、殿様――」
はいれと言われてはいりもしない長庵、それかと言って帰るでもない、いわゆる怖いもの見たさというやつ。
今に何かはじまるかなと、ソッと玄関口から首を入れて覗《のぞ》いていると、あちこちで戸締りを調べ歩いてる用人《ようにん》仲間《ちゅうげん》などの物音がするだけ、奥の方はシンと静まり返っているから、長庵、
「何でエ。格別《かくべつ》のこともねえじゃアねえか。面白くもねえ。お命頂戴、只今参上はいいが、一たいいつ来るっていうんだろう?」
ひどいやつがあったもので、人の危難《きなん》はわが楽しみ、まるで芝居の幕があくのを待つような心もちで、
今にも何か起らねえか――耳をすましている。
その鼻っ先だ。
行燈《あんどん》が一つ、上《あが》り端《ばた》に置いてあるだけで、そこらはうす暗い。その半暗《はんあん》を乱して、パッ、奥の廊下を渡って来た風のような人影がある。さア出た! というんで、往来をめざして逃げ出そうとするところへ、まるで猫のよう、あし音もなく追いついて来た人――というより、物の感じだ。その物が、玄関の前で、うしろから長庵を呼び止めた。
「下郎《げろう》か」
「はい」長庵は、足をとめた。膝《ひざ》ががくついて、駈《か》け出そうにも言うことをきかない。猛犬に踵《かかと》を嗅《か》がれる思い。あれだ。村井長庵、腋《わき》の下に汗をかいて、とにかく歩を控《ひか》えた。が、ふり返るだけの勇気はない。真っ直ぐ向いて、前の暗黒《やみ》へ答えた。「はい、下郎でございます」
「当屋敷の下郎か」
「いいえ、近処の部屋におります渡り者の折助でございます」
「しかとさようか」
真っくらで、おたがいに服装《なり》までは見えないのだ。
「相違ござりませぬ」
いやに硬《かた》くなって受け合った。と、その背後《はいご》の物がニヤと笑ったようすで、
「手を出せ、貴様に好い物をとらせよう」
よい物と聞いて、貰うものなら何でもという長庵、くるり向き直って伺いを立てて見た。
「旦那様はどなたさまで――」
すると、のんびりとした声で、
「神尾喬之助である」
という返辞《こたえ》に、わッ! と胆《きも》を潰《つぶ》した長庵が逃げ出そうとすると、
「これをくれてやる。」
何やら突《つ》き出した。受け取らざるを得ない。逃《に》げ腰《ごし》で、手を出した。渡されたのは、丸い大きな物である。濡れた毛のようなものが手にさわって、全体が生あたたかく、妙にぬらぬらしている。
かなり重いのだ。
「ありがとうございます」
何だか知らないが、貰った物だから、礼を述べているうちに、渡した相手は、つぶて[#「つぶて」に傍点]のように門を走り出て、瞬《またた》く間に闇黒《やみ》の底に呑《の》まれてしまった。
と、この時、屋敷の奥座敷の方に当って、一時に沸《わ》き起った人々の叫び声だ。
「やッ! 殿様が、殿様が……」
これでわれに復《かえ》った村井長
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