何でその様な――」
 長庵が、珍しく真気に反駁《はんばく》して、
「おやしきへ参って、この貼札《はりふだ》を見、思わず声を揚げたのでございます」
 只今参上……と、もう一度読み直した玄蕃、うむ! さてはおのれ!――気がついたのは、今の刀の件だ。これはこうしてはおられぬ。手慣《てな》れたる強刀《ごうとう》、何はともあれ、綱を去って鯉口《こいぐち》押し拡げておかねば――あたふた家の中へ引っ返しかけたが、万一の場合を思ったか、
「仁平《にへい》!」仲間の一人を呼んで、「雉子橋御門《きじばしごもん》、砲筒御蔵前《ほうづつおくらまえ》の浅香慶之助殿の屋敷へ急使じゃ。慶之助殿に、四、五の若党を引きつれ、直ちにおいで下さるよう……一刻を争う場合、大迫がお待ち致しおると申し伝えろ。よいかッ。宙を飛んで行けヨ」
 言葉すくなになった。それから、茫然《ぼうぜん》としている一同に、
「風呂場、不浄《ふじょう》、水口、縁先等、いま一度、戸締りを見ろ。掛金《かけがね》、棧《さん》、その他に異常なきやを確めるのだ。それが済んだら、各人、剣を執ってわしの座敷へ集れ、酒の支度をしてナ、今夜は徹宵痛飲《てっしょうつういん》、無礼講に語り且つ呑んで暁方《あけがた》を待とう」
 何だか物騒な下知《げち》だが、呑《の》めると聞いてよろこんだのは家来達だ。それぞれ手分けして、言いつけられた用に散らばって行く。
「長庵、参れ」
 はいりかけた玄蕃が、ふり返って呼んだ。が、長庵はすっかり恐縮していて、
「イヤナニ、こちらで結構でございます」
「馬鹿ッ! そこは戸外《こがい》ではないか」
「はい。外のほうが安全で、ピカリッ抜いたッと来りゃア一|目散《もくさん》。古語《こご》にも申します。君子《くんし》危きに近よらず――」
「何を愚図《ぐず》愚図申しおる」
「殿様、相手は、あの神尾喬之助で――?」
「なあに、彼ごとき――」
 気が急く。刀の始末をせねば――。
「長庵、あとをよく閉めて参れ」
 そのまま、独り家へ上った大迫玄蕃、スタスタと元の座敷へ帰って来て、サラリ、障子を引いて一歩踏み入ったかと思うと、――流石《さすが》は武士、低い声だった。
「ヤヤッ! 誰だッ?……」

      六

 いつの間にどこからはいり込んだのか。
 座敷の床の間に腰かけて、ニタリニタリ笑っている神尾喬之助――。
 肩に継布《つぎ》の当った袷《あわせ》一枚に白木《しろき》の三|尺《じゃく》、そろばん絞《しぼ》りの紺手拭いで頬かむりをしている。暫らくの間に巷《ちまた》の埃《ほこり》によごれ切って、侍《さむらい》とも無頼漢《ならずもの》とも知れない、まことに異形《いぎょう》な風俗だ。長い刀《やつ》を一本ぶっ込んだまま、玄蕃を見上げて、相変らず美しい顔を笑わせている。ほとんど無心に見えるのだ。
 たださえギョッ! とした玄蕃だ。それが一層、この喬之助の放心したような態度には、言い知れぬ不気味《ぶきみ》なものが感じられて、しばらくは口もきけなかったが、やっとのことで、
「ヨ、よく来たナ、苦労したろう。エ? 苦労したでござろう。察する。察する。な、な、元通り気易《きやす》に願おう」
 刀を取ろうにも、刀は、喬之助が尻《しり》の下に敷いているのみか、まだ綱が捲《ま》いてあるのだから、たとい手にあっても、どうすることも出来ぬ。と言って、部屋を出ようとしたり、声を出そうとすれば、今にも喬之助の手に白刃《はくじん》が閃《ひら》めきそうに思われるのだ。玄蕃は、素手《すで》である。すっかり参ってしまって、俄《にわ》かに思いついて友達めかして懐しそうに出たのだ。そのうちには、言いつけて置いたとおり、屋敷の者も集まって来るであろうし、またあの、助勢《じょせい》を頼んでやった浅香氏も、駈けつけてくることであろう。それまでは、何事も穏《おだや》かに、おだやかに、飽《あ》くまでも下手《したで》に出て、この、一度血を見た若い獣《けもの》のごとき神尾喬之助を、何とかあしらって置かねばならぬ……と、思ったが、あぶない。傍《そば》へは寄れぬ。で、遠くから、うつろな笑いをつづけて、こうなると、万年平番士《まんねんひらばんし》も才が必要だ。柄《がら》になく、愛嬌《あいきょう》たっぷりに言ってみた。
「あはははは、神尾うじ、なア、済んだことは、済んだことではないか――ウウ、今ではナ、却って、わしら一同、貴殿《きでん》に同情を寄せておるのじゃ。いやまったく、貴殿が勘忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切られたのも、無理はござらぬて。今にして思えば、かの戸部近江と申すやつ、実にどうも悪辣《あくらつ》なやつであったな。よく思い切って斬りなすったよ。みんな、その、貴殿に感謝しておる訳さ。で、今日も番士一統|寄合《よりあ》いを開いてナ、連名の上、貴殿の
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