を取ったという、新刀中での稀代《きだい》の業物《わざもの》の据えられてある――のはいいが、何やつの仕業《しわざ》か、大小ふたつとも、何時の間にか強い細引《ほそびき》で、鞘《さや》から柄《つか》へかけて岩矢搦《がんじがら》めに縛《しば》ってあるのだ。
 はッ! とすると、玄蕃、謡本の見台《けんだい》を蹴倒《けたお》して、部屋の中央に突っ立っていた。
 無人。玄蕃の影のみ、畳の上に黒ぐろと伸び縮みをしている。急の動作で、手近の燭火《ともしび》が着衣の風に煽《あお》られたのだ。その、白っぽい光線の沈む座敷……耳をすますと、深沈《しんちん》たる夜の歩調のほか、何の物音もしない。
 が、生き物には、生きものの気配というものがある。それが今、締め切った障子の向う側から、突き刺すように玄蕃には感じられるのだ。その縁の障子から眼を離さずに、かれは、ソロリ、ソロリと床の間のほうへ、後ずさりし出した。

      二

 九段の中坂《なかざか》近く。
 堀留の横町からもち[#「もち」に傍点]の木坂へ差し掛る角屋敷は、西丸御書院番、二千石の知行《ちぎょう》をとるお旗本、大迫玄蕃の住居である。
 この玄蕃。
 青年の多い番士部屋にあって、四十の声を聞ている位だから、事務的才能はなかったに相違ない。陰で同役が万年平番士《まんねんひらばんし》の玄蕃殿と悪口《あくこう》をたたいた。が、その万年平番士の大迫玄蕃、天二物を与えずのたとえの通り、今だってそうだ、スポーツに凝って野球やラクビイの選手か何かで筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》としてるやつに、あんまり秀才はない。と同時に、秀才はどうも蒼い顔をして、大風の日、表を歩くと空へ舞い上っちまうほど、ナニ、そんなのもあるまいが、とにかく、痩《や》せてヒョロヒョロしてるのが多いようだ。昔だって同じことで、なるほど、大迫玄蕃は万年平番士、いつまで経《た》っても秘書課の隅《すみ》にくすぶっているほうで、役所では、あんまり幅《はば》の利《き》く顔ではなかったが――刀である。剣腕《けんわん》である。この大迫玄蕃に、一同が二目も三目も置いていた点は。
 何しろ、力があって剣《けん》が立つということになっていたから、根《ね》がさほど利口《りこう》でない大迫玄蕃、年功というわけで平番士の中では比較的|上席《じょうせき》にもいたし、城中で怖い者がなかった。だから、四十と言えば分別《ふんべつ》盛りの好い年をしながら、ああして戸部近江之介他一同が、伊豆屋のお園の件をはじめ、つまらぬことで事ごとに眼に角を立てて新参《しんざん》の神尾喬之助を嬲《なぶ》り物にしているに際して、陰《いん》に陽《よう》に庇《かば》い立てでもするどころか、この玄蕃、組与頭戸部近江へごま[#「ごま」に傍点]を擂《す》る意《こころ》も手伝って、自分から先に立って喬之助いじめに日を暮らしたのだった。
 事件のあった元日だってそうだ。
 ひれ伏していた喬之助に、
「当人は泣きよる?」
「なに、泣いておる?」
「ほほう、すりゃ、人形でも涙をこぼすと見ゆるナ」
「面白い。見てやれ」
「そうじゃ。引き上げて、顔を見い!」
「構わぬから、髷《まげ》を掴《つか》んで引き起すのじゃ」
 すこし大人気《おとなげ》なかった。が、あの場合、行き掛りもあった。調子に乗って手を伸ばし、ムンズと喬之助の髪《かみ》を握《にぎ》ってグイ! 力まかせに引っ張り上げたのは、この大迫玄蕃だった。
 ちと遣り過ぎたようだわい――あの後すぐ、軽い後悔《こうかい》を感じたように、玄蕃は未だにそう思っているのだった。
 それからが大変ごとだった。
 泣いていたと思った喬之助は、泣いていたのではなくて、顔を伏せて笑っていたのだ。そして、一同を尻目《しりめ》にかけて、控所《ひかえじょ》を出て行った。止せというのに、戸部近江之介が後を追った。と、間もなく、その近江之介の首が溜《たま》りへ投げ込まれて、喬之助は、それ以来、厳《きび》しい詮議の眼を掠《かす》めて、今に姿を現さぬのである。
 さぞこの俺を恨《うら》んでいるだろうな。じっさい、あの喬之助だけは見損《みそこな》った。女子を嬉《うれ》しがらせるほか能のない、生《なま》ッ白《ちろ》い青二才とばかり思い込んでおったのが、あの、俺に髪を取られた顔を上げた時の、豪快な笑い声はどうだ! また、相当|腕《うで》の立つ近江之介殿をあッ[#「あッ」に傍点]と言う間に文字通り首にしたばかりか、大胆《だいたん》といおうか不敵《ふてき》と言おうか、城中番所の窓から抛り込んでおいて逐電《ちくでん》した喬之助のやつ、恐ろしく出来るに相違ないのだ……。
 虫の知らせというのか、大迫玄蕃は、その神尾喬之助が、どこからか、今度は自分の首を、日夜|狙《ねら》っているような気がしてしようがないの
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