躍りこむように、駕籠をめざして突きさしたのだ。が、それと同瞬《どうしゅん》、駕籠の中から、垂《た》れを裂《さ》いて突き出して来た銀ののべ棒――三尺の秋水《しゅうすい》だ。声がした。「鍔《つば》を見ろ!」
ギョッ! とした長庵、差し出された刀の鍔《つば》に眼を凝《こ》らすと、黒地《くろじ》に金で「喧嘩渡世」の四字。
身をひるがえした長庵が夢中で駈け出したとき、男と女の笑い声を載せた駕籠は、もう夕闇《ゆうやみ》に消えていた。
びっくりしたのは、長庵である。思わず、どこか近所へ逃げこむつもりで、息せききって駈けつけて来たのが、中坂下《なかざかした》を通り、堀留《ほりどめ》の横町から真っ直ぐもちの木坂へ登ろうとする角《かど》の屋敷――西丸御書院番、大迫玄蕃の住居《すまい》。
と、そこにも一つ、より大きな驚愕《きょうがく》が長庵を待っていようとは!
大迫玄蕃の玄関の戸に、大きな貼紙がしてあるのだ――「お命頂戴《いのちちょうだい》!」下に小さく「只今参上《ただいまさんじょう》」
血滴抹殺線《けってきまっさつせん》
一
およそ寝覚《ねざ》めが悪いと言えば、大迫玄蕃がそれだった。
大迫玄蕃、千代田城御書院番士のひとりで、四十余りのでっぷりした男だ。御書院番と言えば、現代《いま》で言う秘書課のようなところだから、わりに若手《わかて》が多かったもので、ここで柳営《りゅうえい》の事務を見習い、才幹《さいかん》があると認められれば、それぞれ上の役柄《やくがら》へ振り当てられて、出世《しゅっせ》をするやつは出世をする。出世をしないやつは出世をしない。そこは今も昔も同じことだが、失業だの生活難だのという複雑深刻《ふくざつしんこく》なる社会経済のなかった時代だから、何といっても呑気《のんき》なもので、御書院番の椅子――じゃアない、座蒲団《ざぶとん》だ――その御書院番士の座蒲団が一枚|空《あ》いているからと言って、官報第何号か何かでその欠員を募集するてエと、願書が何千通|山積《さんせき》して、その中で高文《こうぶん》をパスしたやつが何百人、帝大出が何百人、選びようがないからおめでたい名前を探《さが》して鶴亀千萬男《つるかめちまお》てえ先生を採用に決する……なんてことはなかった。一度御書院番に召し出された以上、定刻《ていこく》に出仕《しゅっし》して定刻に下城《げじょう》し、その間は、仕事をしているごとく見せかけて、要領よくブラブラしていさえすれア、大した失態《しったい》のない限り、まずお役御免なんてことはない。徳川の世を万代不易《ばんだいふえき》と信じていたように、まことに悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たる時代だったもので――。
「誰か――そこにおるのは」
燭台《しょくだい》の灯影《ほかげ》で、つと大迫玄蕃は眉を寄せた。
おや! と思ったのだ。ミシ!――縁《えん》の廊下の端《はし》で、板が、さながら人の重みで鳴ったような気がしたのである。
から耳?
そうだろう。下僕《げぼく》をはじめ家人らは、先刻《さっき》戸締りを済まして、今はもう銘々《めいめい》の部屋へ退《さが》ったあと。武家屋敷は夜が早い。今ごろ、この玄蕃の座敷の近くを、人の歩くはずはないのだ。
おれはすこし神経質になっているようだ――神経質なンて洒落《しゃれ》た言葉は後世《こうせい》の発明だから、大迫玄蕃が知っている訳はないが、とにかく、そんなようなことを考えて、自ら嗤《わら》うもののごとくにつと白い歯を見せると、彼はそのまま、再び謡本《うたいぼん》へ眼をさらし出した。
端坐の膝を軽く叩いて、手拍子《てびょうし》である。
――われはこのあたりにすむぎょふにてそうろう。
謡曲《ようきょく》羽衣《はごろも》の一節、柄《がら》になく風流なところのある男で、大迫玄蕃が、余念なくおさらいに耽《ふけ》っていると、夜は戌《いぬ》の上刻《じょうこく》、五ツどき、今でいう午後八時だ。風が出たとみえて、庭の立樹《たちき》がゴウッ――潮騒《しおざい》のように鳴り渡って、古い家である、頭のうえで、家棟《やむね》の震動《しんどう》がむせび泣くように聞えてくる。それが、おのが口ずさむ謡《うた》いの声を消してしまいそうだから、玄蕃が、一段と声を高めて……これなるまつにうつくしきころもかかれり、とやった時!
ミシ! またしても障子の外部《そと》の縁側《えんがわ》に当って、何やら重い物が板を踏《ふ》む音。
大迫玄蕃、決して臆病《おくびょう》な男ではない。が、思わず、声を呑《の》んで、白けた眼が、うしろざまに床の間を顧《かえり》みた。そこに鹿の角の刀|架《か》けに二口の豪刀、大迫玄蕃が自慢の差料《さしりょう》で、相州《そうしゅう》お猿畠《さるばたけ》の住人、お猿畠の佐平太兼政が火と水
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