城からお呼び出しが来て、お油の御用一切をあらためて申し付かることであろうと、毎日こころ待ちにしているのだが――。
鼻薬《はなぐすり》として筆幸から山城守へ届けられた金は、途中、長庵の手で半分くすね[#「くすね」に傍点]られて、肝腎《かんじん》の山城守のふところへは、半金しかはいっていないのだから、山城守は内心、筆屋はけち[#「けち」に傍点]なやつだと思っている。おまけに今度は、幸吉の訴人《そにん》の件で、山城守は八丁堀へ顔向けが出来なくなったから、どうも筆屋は怪《け》しからぬという印象《いんしょう》を与えて、この話も、筆屋が楽観しているほどは、スラスラと運びそうもないのである。
あまり長庵が、筆幸のことを五月蠅《うるさ》く頼み込むので――もっとも長庵としては、このはなしが成り立てば、いずれ筆屋から、たんまりお礼を貰う約束があるからだが――山城守は交換的《こうかんてき》に、長庵じしんに、一つの仕事を命じたのだった。
それがうまくいったら、筆屋の油御用のほうも、奔走《ほんそう》して纏《まと》めてやろう――そうは言わないが、いわなくても解っている。山城守と長庵のあいだの、言外《げんがい》の交換条件であった。
それは、喬之助の弟琴二郎をおびき出して、責めるなり欺《だま》すなり、そこらは長庵の手腕《うで》だが、とにかく何とかして、兄喬之助の潜伏《せんぷく》個所を吐き出させること。それだった。
七
あっさりお受けして、御前を退《さが》った長庵だったが、考えてみると、そんなことで真面目《まじめ》に働くことはない。根が荒っぽい大悪党の長庵である。機を見て、その琴二郎を引き出し、スッパリ殺してしまえば、それでいいのだ。責めているうちに、意気地《いくじ》のないやつで、落ちてしまいましたと言えば、山城守のほうは済むのである。第一、琴二郎なんかという青二才が生きているから、自分が、こんな厄介《やっかい》な用事を言いつかったりする。殺してしまえば、それきりなのだ。そうだ、琴二郎を殺したうえで、あれほどお城の番士たちに騒がれて、こんな事件を起したほどの、美人番付の横綱、喬之助の妻園絵、いや、伊豆屋のお園である。琴二郎さえ亡くしてしまえば、良人《おっと》の喬之助は、行方《ゆくえ》不明のお尋ね者で、うっかり出て来られないのだから、何とかして、一度でも園絵をわが有《もの》にしてみたいものだと、ひどいやつがあったもので、村井長庵、飛んでもない野望《やぼう》を抱《いだ》きはじめているのだった。
で、きょうも、筆幸の店からの帰りみち、これから真っ直ぐに築土《つくど》八|幡《まん》へ廻って、何か口実を作って、琴二郎に会ってみようか――それとも、もうすこし日和《ひより》を見ようか――坊主頭を頭巾《ずきん》に包んで、うす菊石《あばた》のある大柄な顔をうつむかせた長庵、十|徳《とく》の袖に両手を呑んで、ブラリ、ブラリ、思案投げ首というとしおらしいが、考えこんで来かかったのが、九段下のまないた橋だ。
人声がするので、フと顔を上げた。駕籠《かご》が二|梃《ちょう》、夕やみのなかにとまっている。と、その時、後の駕籠の垂れをはぐって覗《のぞ》いていた武士《さむらい》の顔!
おや! と、長庵は、すこし離れたところで、眼をこすった。長庵は、神尾喬之助の顔は、知らないのである。が、当節《とうせつ》評判の人物だから、話に聞いて、大体の想像はつく。ハテナ、喬之助ではないかナ――と思った瞬間《しゅんかん》、長庵はすぐ思い返した。いや、お尋ね者の喬之助が、今頃こんなところを駕籠で通るわけはない。しかし、話に聞いた人相とあんなに似ているところを見ると、これは、ことによると、弟の琴二郎ではないかしら? そう思って、前の駕籠をすかして見ると、派手な女の着物が隙間《すきま》から見えるのである。長庵は、胸に問い、胸に答えて、ウム! とひとりうなずいた。琴二郎に園絵――それに相違はねえのだ――。立ち停《ど》まって、駕籠《かご》の出るのを待った。やがて、駕籠は再び地を離《はな》れて、タッ、タッ、タッといきかかる。そこを、追いついた長庵、声を投げた。
「もし、琴二郎さまではございませんか。その後のお駕籠《かご》は、琴二郎さまではござんせんか」
と、すぐ、うしろの駕籠から、しずかな声が答えた。
「はい、琴二郎でござる。そういうあなたはどなたで――?」
ちょっと駕籠舁《かごか》きが足をゆるめて、駕籠が停まりかけた。そこを、長庵は狙っていたのだ。医者とは言え、あぶれ者の長庵のことだから、九寸五分ぐらいは何時《いつ》だって呑んでいる。それが、闇黒《やみ》に、魚鱗《ぎょりん》のごとく閃めいて走った。同時に、長庵、凄《すご》い声でうめいていた。
「面倒くせえや! 琴二郎、往生しろ!」
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