である。
 仇敵《かたき》を持つ身――芝居や戯作《げさく》では面白いが、さて、現実に自分がそれになってみると、あんまり気もちのいいものではない。
 登城《とじょう》下城《げじょう》に、それとなく、要心していた。

      三

 が、日も経った。いくらか安心していた大迫玄蕃である。その安心がいけなかったのだ。
 おやッ! 刀に綱《つな》がかかっている。これでは、急に抜こうにも抜きようがない――ハテ! 何やつが、いつの間に忍び込んで、かようなことを、したのであろう――?
 と、正面の障子に充分の注意を集めながら、まず、刀の綱を解いて置かねば、イザという場合に……大迫玄蕃、うしろ足に床の間へ近づきながら、心中に考えてみた。
 今日は昼御番だった。下城帰宅したのが暮れ六刻《むつ》、一|風呂《ふろ》浴びて夕食、いまその食事が下げられて、奥をはじめ子供達は部屋へはいり、家臣は早く戸締りを見て、これも下へ引きとって間もなくではないか。
 自分はすぐ、この奥まった座敷《ざしき》に独り残って、好きな謡曲《ようきょく》の稽古《けいこ》をはじめた。あれから何刻《なんどき》も経っていないはずである。まだ早いのか晩《おそ》いのか、どこかで寺の鐘でも鳴らないか――と、大迫玄蕃が耳をすますと、台所で洗い物をする音がかすかに聞えて、折助《おりすけ》どもの笑い声もするようだ。これで、大体時間の見当がついて、さほどおそくもないようだと、ホッと安堵《あんど》した玄蕃、もう一度考え直してみる。
 不思議なのは、この刀だ。お城から帰った時、自分はこの部屋で着更《きが》えをして、その節、確かに差していた二刀を抜き取って、いつものように傍《そば》で世話をしていた奥《おく》に渡した。奥は、それを床《とこ》の間へ持って行って、この鹿の角の刀かけに掛けた。その時は、勿論、このように鞘から柄にかけて綱《つな》でなぞ絡《から》めてなかったのである。そんな馬鹿げたことをする訳もなければ、かりに子供のいたずらにしても、第一自分は、下城以来、一歩もこの部屋を出なかったのだから、そんな隙があるはずはないのである。ほんとに、宵《よい》から一度も、この座敷を明けなかったか――ウム、出た覚えはない。イヤ、待て。一度浴室へ参った。その時、帰って来て、刀はどうなっておった? どうもなっておらなかった。もしそのとき既に縛ってあったものなら、疾《と》うに気がついておらねばならぬ――すると、それ以来、一歩も部屋を出なかったか? 出なかった! ずうッとここにおって、謡曲《ようきょく》をさらっておった。ハテ、たった今、厠《かわや》へ立ちはしなかったかナ――お! そうだ、いま厠へ行って帰って来たところだ! うウム、さてはその間に何者か忍び入って――だが、しかし、忍び入ってと申して、一体どこから忍び入ったというのだ。戸じまりはあの通り、さっき仲間《ちゅうげん》が手分けをして見て廻ったではないか――。
 ことによると、戸締りをする以前《いぜん》から密《ひそ》かに這入っておって……うフフフ、そも何者がこの屋敷へひそかにはいっておるというのじゃ?
 大迫玄蕃は、床《とこ》の間へ行って刀を取り上げながら、自分でもおかしくなって、瞬間《しゅんかん》、ふッとせせら笑った。
 と、誰が――誰がとは何じゃ? きまっておる! あの、神尾喬之助に決まっておるではないか――玄蕃の顔に、浮かびかけた笑いが凍《こお》った。
 手の、佐平太兼政お猿畠《さるばたけ》の大刀を見る。滅多捲《めったま》きに捲き締めて、強く固く綱口《つなぐち》を結んであるのだ。急には解けそうもない。
 障子の外には、何やら生き物の呼吸づかいが、まだ犇々《ひしひし》と感じられるのである。
 急にあわて出した大迫玄蕃、カタカタカタとふるえを帯びて来た手で、その結び目を解こうと焦《あせ》っている……。
 声を揚げて、家人を呼ぼうか。
 いや、五尺の男子、ましてや旗本、しかも、腕に覚えのあるはずの大迫玄蕃ともあろうものが、まだ宵の口に、さような意気地《いくじ》のない真似《まね》は出来ぬ。
 が、何やら容易ならぬことがこの身に迫りつつある。何にしても、早《はよ》うこの刀の綱を解いてしまわねば――玄蕃は、何時の間にか、額部《ひたい》に大きな汗《あせ》の粒《つぶ》を※[#「さんずい+参」、第4水準2−78−61]《にじ》ませて、必死になっていた。
 爪が痛いばかりで、なかなか解けないのだ。
 丁度その時、玄関に当って、けたたましい大声がして――。

      四

「大変だ、大変だあッ!」驚いた時の、頭のてっぺんから突ッ走る声だ。出そうたって出る声ではないのだ。「殿様ッ! 大迫の殿様アッ! まだ生きていられますかい? どなたもいねえんですかい――」
 まだ生きていられます
前へ 次へ
全77ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング