ろ考えているうちに、自分でも知らずにうっかり結城の自藩を出はずれて、ここまで来たものと見えるが、それにしても、いつあの月見橋を渡ったろう? さっき橋を渡ったくせに、平馬はすっかりそれを忘れているのだった。が、仕合が近づくにつれて、殺気立っている両藩の若侍である。ここが下妻の里とすれば、自分の姿を見つけられては、ひと騒動もち上るに相違ない。これは早々に引っ返した方がよい――平馬は急いで立ち上がろうとした。少女が止めた。
「ただ今お茶を――この辺でお見かけ申したことのないお方でございますが、あなた様は旅のお方でございますか」
「さよう」と平馬はどきまぎして、
「旅の者でござる」
 するとこの時、奥の座敷で、大勢の人の話し合っている声が平馬に聞えた。
「何かの寄り合いですか」
 平馬が訊いた。
「はい。旅のお方なら御存じございますまいが、この筑波のお山のお祭が近づきまして、例年のとおり、となりの結城藩と剣道の仕合がございますので、こちらの下妻の若侍たちが相談しているのでございます。ここの私の兄が、頭《かしら》なものでございますから」
 はっ[#「はっ」に傍点]とした平馬が、これは面白いところへ来合わせたものだと思いながら、出された茶を飲み飲み、身体じゅを耳にして、奥の話声に注意していると、五、六人の大声で、こんなことを言うのが聞えた。
「おい、おい、今年はいよいよ結城からあの平馬というやつが仕合に出ると申すではないか。あいつが一番厄介だな」
「あいつ、もう一年元服を延ばせばいいのになあ!」
「そんなこっちにばかり都合のよいことを言っても始まらん。しかし、平馬に出られては弱るよ、じっさい」
「俺はよくは知らんが、あいつそんなに強いのか?」
「強いとも、つよいとも、物見の申すことには、まず何流と言わず、平馬ほどの使手は、江戸にまいってもさほどにあるまいとのことだ」
「ふうむ――それは、平馬の強いことは、いまに始まったことではない。去年も一昨年もあいつが出れば俺たちは負けたのだ。それがまあ、まだ前髪があったばかりに、仕合へは出られなかったので、俺たちは助かってきたのだ。今年こそ出るとなれば、遺憾ながら我々は負けだな」
「四年目に奉納仕合の勝ちを結城へ持って行かれるのか。残念だな」
 と、いかにも無念そうに、一同が腕組みでもしているものとみえて、しばらく奥の話がとぎれたが、やがて今度は前にも増した大声で、がやがや喚くように言い出した。
「なんとかして平馬が仕合に出られないようにしてやろう!」
「そうだ、そうだ――やつ、風でも引かないかな」
「馬鹿! そんな呑気なことを言っている場合ではない。一人ずつ面と向って叶わない相手なら――闇討にきまっておるではないか!」
「そうだ、そうだ! 闇討だ! 闇討だ!」
「殺してはいけない。殺すと面倒だ」
「ただちょっと肩の骨を挫《くだ》くなり、指を折るなりして、今度の仕合に出られないようにしてやりさえすればよいのだ」
「なるほどそれにかぎる。さっそく、間者を放って、彼の動静をうかがわせるとしよう」
「それによって大勢で待ち伏せしてやってしまうのだ。向うは一人、こっちは大勢、平馬といえど鬼神ではあるまい。あに恐るるにたらんやだ」
「名案、名案!」
 というわけで、あとは拍手喝采《はくしゅかっさい》、下妻の若侍一同、当の平馬がつい[#「つい」に傍点]鼻の先に聞いているとも知らず、好い気持でさわいでいる。
 平馬も何気ない顔で、しきりにお茶を飲んでいたが、やがて丁寧に別れの挨拶をすると、静かに立ち上った。そして、ホウホケキョと鳴くうぐいすの声と、それよりもっと朗かで優しい少女の微笑《ほほえみ》とに送られて、平馬は往来へ出た。
 自分の背丈もあろうかという大刀を横たえた平馬の姿が、春霞にかすむ野道を結城の町の方へたどって行く。それが点となって消えてしまうまで、少女は門に立って見送っていた。
 その向うに、筑波の山が胸から上を雲にあらわして、あるかなしかの風に、紅梅の花びらが少女の上に散った。

   うぐいすの便

 それから二日ばかり大雨だったが、その雨のはれた朝のことだった。鶯の宿の少女が、縁に出て、陽の照る庭に立ちのぼる水気を嗅ぎながらいつものように、籠のなかの鶯に戯《たわむ》れていると、その朝にかぎって、どうも鶯のようすがへんだった。なんとなくそわそわしている。と思ってよく見ているうちに、どこか遠くでほかのうぐいすの声がした。ホウホケキョというその啼《な》き声は、はじめはかなり遠くの方でしていたが、それがだんだん近づいてきて、今度はどこか家の近くで大きくはっきり[#「はっきり」に傍点]と啼くのが聞えた。すると少女の鶯も友達が来たのを喜ぷように盛んに啼きたてた。やがて庭先の梅の小枝に、ほかの鶯の黄ばんだみどり
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