ませぬ。千浪を、そのような女と思召しでござりますか。」
「ははははは、よろしい! 早く取れ、早く!」
 わななく胸を押さえて千浪は懸命に、繃帯を巻き取る。早く! 早くと促されるままに、眼まぐるしいほど手を廻して。
 眉が、片眼が、紫いろの、凹凸の中から、覗いてきていた。

   江戸の巻――二人白衣――

     足留め詣り

「いくら呑気だってほどがある。うちの宿六《やどろく》には呆れ返っちまう。これで十日あまりも冢を明けているんです。南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、どうぞ足どめをしてお返し下さいますように――。」
 朝の七つ半刻、むらさき色の薄靄が暗黒《やみ》を追い払おうとして、八百八町の寺々の鐘、鶏の声、早出の青物の荷車――大江戸は、また新しい一日の活動にはいろうとして。
 ここ深川、富ヶ岡八幡の社前に、おごそかに柏手を打ってしきりに何ごとか念じているのは、恋慕流しの宗七の妻、お多喜なので。
 きれいに掃き清められた階《きざは》しの下にうずくまって、
「ほんとにほんとに、愛憎《あいそ》がつきてしまいますけれど、でも八幡さま、あれでも、あたしにとっては大事な人ですからね
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