人が峰づたいの山狩りの汗を洗い、炭やきが、煤煙《すすけ》を落すだけの場所だったが――それがこのごろ、遙か下の町の人々にも知れて来たとみえて、ぽつぽつ入湯の客が登山《のぼ》って来る。遠く、山にとっては外国のようなひびきを持つ、花の都のお江戸からさえも、といっても、月にふたりか三人の逗留客があるにすぎないが、それでも、上って来る者のあるのに不思議はないので、じつはこの猿の湯は、さながら神薬《しんやく》と言っていい霊験《れいげん》を有《も》っているのだ。
 きく。打ち身、切り傷にうそのようにきく。
 たいがいの金創《きんそう》は、三日の入浴で肉が盛り上り、五日で傷口がふさがり、七日でうす皮が張り、十日ですっぱり痛みが除《と》れて、十五日目には跡形もなく、一月もいれば、傷あとを打っても叩いても、何の痛痒《うずき》も感じないという。
 ことに、二つき三月とこの猿の湯に浸《つ》かりあげれば、年どしの季候の変り目に、思い出したようにふる傷が泣くということがない。
 別人のような達者なからだになって山を下りられる――と旅の者の口が披露《ひろ》めて、おのずから諸国へ散ったのであろう。この、幕運ようやく衰
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