きるおやじだ。一言いうと、黙って小刀が飛んで来て、ぱらり、十本の指が飛んだ。それから――それから、押さえつけられて、額部《ひたい》に墨で何か書かれたまでは覚えているが――。」
 二階は、しんとしている。
 暴風雨は、ちょっと小止《こや》みになって、一瞬間の不気味な静寂――階上には、法外父娘の部屋の障子に、ぼうっとあんどんの灯が滲んで人のいそうもない気配。
 呼吸《いき》を詰めて一同が、はっと階上《うえ》を見上げたせつなである。
「うわっ! こりゃ、なんとしたことじゃい! この猿の湯でお猿さまを斬り殺すとは――!」
 土間の男衆が、つん裂くような声で叫んだ。
 と、見る。片手に傘をさし、かた手に小さな猿の死骸をぶら下げた祖父江出羽守が、切戸を潜って、のそりとはいって来ている。
「畜生のくせに、湯へはいりに来おったから、一刀のもとに、このとおりじゃ。四足を斬った刀は、滅法切れると言うことじゃぞ、ははははは。」
「じゃが、旦那、殿さま、お猿さまは、この猿の湯の守り神で、あれは、お猿の湯へ人間が入れて貰っておるというくらい――ああ、こりゃ、とんだ崇りがなければよいが。」
 おろおろと立ち騒ぐ男
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