なんざ、ついぞ立っていた例《ためし》がねえ。いつも寝転んでやがら。」
「余計なことを言うな。おい、川島、貴様弁口が巧い。二階へ行って、娘を借りて来い。」
「よしきた。一つ、弁天様のお迎いに行くかな。」
藤屋のどてらを素膚に引っかけた川島与七郎が、いつもの、古草鞋のような不得要領な顔で、気軽に腰を上げかけると、
「湯へ行ってまいる。」
蒲団の上に突っ立って、何かぼんやり考えこんでいた出羽守が、いきなりそう言って、縁へ踏み出した。大刀を差したままである。湯へ行くにも、刀は離さないのだ。
びっくりした一人が、
「ですが、この、雨の中を――。」
「黙っておれ。雨だとて仔細ない。湯へはいれば、どうせ濡れる。おい、手拭を取れ。」
差し出した手拭を鷲掴みに、出羽守はぶらりと土間へ下りながら、
「一風呂浴びて来て、飲み直しじゃ。今夜《こよい》は徹宵《てっしょう》呑《や》るも面白かろう。湯から上って来るまでに、娘を伴れてきておけ。湯壺へは、誰も来るでないぞ。」
いつも必ず真夜中に、ただ一人で猿の湯へはいりに行くのである。片手で番傘を振りひらいて、篠突く雨のなかへ、刀の鞘を袖で庇《かば》いつつ、
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