とすらあ!――駿《すん》、甲《こう》、相《そう》の三国ざかい、この山また山の行きずりに、こんな、玉をころがす声を聞こうたあ、江戸を出てこの方、おいらあ夢にも思わなかった。おお、何か数えている声だが――。」
 右手に谷を望んで、剣の刃わたりのような一ぽん路だ。草のなかの小径に、釘づけにされたように歩を忘れた男の耳へまたしても響いてくる銀鈴の山彦――。
「下から聞える。それに、湯のにおいがする。」男は片手を耳屏風に、「十一、十二、十三――何を数えてるのか知らねえが、とんだ皿屋敷だ。ここらは猿の棲家《すみか》だてえから、定めし狐も多かろう。化かされめえぞ。」
 と、歩きかけたとたん――木の間をとおして、閃めくように眼に入った眼下の湯の池と、そして、そこに何を認めたのか、江戸の文珠屋佐吉と自ら名乗るその男は、ひた、ひた、と吸い寄せられるように路を外れて、歯朶《しだ》を踏みしだき、木の根を足がかりに、たちまち、そこに、谷を覗きぐあいに生《は》えている一本の山桂の枝へ、油紙包《ゆしづつみ》の振分《ふりわ》けを肩にしたまま、ひょいと飛びついた。
 ひらり!
 奇怪! なんという身の軽い男!
 天然露
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