次郎が言いだしたのを幸い、かれを案内に立ててあたふたと、ああしてこの深山《みやま》の湯へ分け入って来たのだけれど、そういつまでも江戸の道場を空けておくわけにもいかない。
 きょうは帰ろう、明日は発とうと思うのだが、大次郎ここに何か目的《めあて》があるらしく、しきりにその日を待つようすで、いっかな腰を上げようともしない。
 そのうちに、どうやら法外も山に根が生えた気味で、とうとう三人、今日まで藤屋に日を重ねてきたのだけれど。
 その、大次郎の待つめあてとは何か。
 第一、かれは、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な場所を知っていて、そして何しにここへ来、今まで動こうとしなかったのか――。「身許を包んでいたわけではありません。ただいま先生にも申し上げましたが、私は、この近所《きんぺん》の、山伏山のむこう側にあたる田万里《たまざと》というところの生れで――。」
 眼の大きな、すっきりした顔を千浪へ向けて、伴大次郎が静かに語りだした。
「その村は、わたくしの一家は死に絶え、一村ことごとく離散して、今はあと形もありません。私としては、家ひとつない昔の部落《むら》あとにも、言いようのない懐しさを抱いてお
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