。千浪さんのことは、おれが引き受けたから、安心していてもらいたい。」
「大次郎さま! 大次郎様!」
意識を取り戻そうとして、まだ千浪は、夢の境からハッキリ覚めきらないと見える。
その時室内から、良人《つま》を呼ぶ彼女の声が細々と、二人の耳へ洩れて聞えて来る。
その己が身を慕って呼ぶ恋妻千浪の声を聞いた時に、それを振りきって出て行こうとする伴大次郎の心は、どんなであったろう!
飽きも飽かれもせぬ仲を、復讐と、彼女の幸福のために、哀恋の糸を自ら絶ち切って武士なればこそ、辛い大次郎ではあった。
佐吉は声を忍ばせて、
「それじゃあ行くか。いま言ったとおり、おれが預かったからにゃあ、大事な客人として誰にも指一本指させるこっちゃあねえ。安心していなせえよ。」
「思わぬ苦労で、千浪は身体が弱っておるらしい。充分ともに気をつけてやってくれ。」
と捨て行く妻の身を案じて、なおも佐吉にくれぐれも頼んだのち、白覆面の煩悩児伴大次郎、白衣の懐手の袂をぽんと背後に撥ねたかと思うと、
「ではいずれ――。」
飄然として、この伝馬町の旅籠文珠屋を後にした。
煩悩の女髪を宿す右近三郎兼安の朱鞘に、暮れゆ
前へ
次へ
全186ページ中164ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング