出て、縁の物蔭へ佐吉を呼び出し、
「拙者は、あの千浪に顔を見せたくないのだ。拙者のために、また千浪のために――おれはもう、千浪の前に現われないほうがいいのだ。で、これからあの討ち洩らした出羽を狙って、拙者はもう一度江戸の町をうろつくつもりだ。」
「それは大次、どういうわけだ。あの千浪さまはお前の女房で、今日もお前を慕ってあちこち探し歩きそのために、あの出羽をお前と間違えて、ここへ連れ込まれたくらい――それほどお前に焦《こが》れているものを――。」
「いや、言うてくれるな。」
 その大次郎の眼に、素早く涙が宿って、
「おれとても、あれを憎からず思ってはおる。憎からず思うどころか、いつどこにおっても、あれのことが頭を離れんぐらいに、おれは千浪を思いつめているのだが――あれの幸福を願えばこそ、あれと別れておらねばならぬ。」
「それはいったいどういうわけだ。」
 急き込んで訊く文珠屋佐吉の手を、しっかり握り締めて、
「その理由は、訊いてくれるな。一つには、あの祖父江出羽守という仇敵をもつ身が、千浪と恋に落ちたのが、そもそもの間違いであった。いかに思い合ったればとて、世の常の夫婦のごとく、安穏に
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