郎の悲痛と落胆は大きかった。
 が、気が狂っている以上、今すぐ訪ねて行ってもしようがあるまいと、小信の身は、宗七夫婦に依頼して一時安心することにした。
 そして二、三日うちに、大次郎は必ずやぐら下の宗七夫婦の宅へ小信に会いに行くことにして、とにかくその日は、文珠屋佐吉と連れ立って、その伝馬町の旅館へ帰ることにした。なおも三人、相談と手筈を決めた後。
 その、女気抜きの名物旅籠、文珠屋の階上「梅」の座敷では。
 良人大次郎とばかり思い込んで、ここまで来たのが、顔を見せられて、あの恐ろしい父の仇敵白覆面と知った千浪は、そのまま哀れに気を失っている。
 その、ちょっと覗かせて見せた祖父江出羽守の素顔に、何があるのか。それは本人の出羽守と、一眼見せられた千浪のほか、誰も知らないのだが――。
 夕暮れ近い部屋である。
 出羽守は、またすっぽりと覆面を下ろして、その、倒れている千浪の姿をまじまじと凝視めて、頭巾の中で隠れ笑いをしている様子だったが、やがて手を鳴らして、障子際に手を突いた番頭の与助へ、
「酒が所望じゃ。」
 と命じた。
 この、気絶している千浪を眺めながら、それを肴に一杯やる気と見え
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