せにやろうかと思っておったところじゃ。」
 高弟の伴大次郎と何か話しこんでいた父、法外が、しずかに首を向けて千浪を見上げた。
 大次郎は、女とも見まごう整った顔に、若わかしい笑みを浮かべて、
「いま階下の連中が、大騒ぎして湯へ下りて行きましたが、そこらでお会いになりませんでしたか。」
 が、答える先に、千浪の眼は、部屋の隅に置いてある一つのまあたらしいつづら笠に止まった。
 山でかぶる葛籠笠。
 千浪は、見るみる顔をかがやかして、
「まあ! では、いよいよ江戸へ発《た》ちますことに決まりましたんでございますか。」
 でも、三人旅に笠が一つとは――?
 大次郎が、にこやかに答えていた。
「いや、わたくし一人です。ぜひ今夜のうちに三国ヶ嶽へ登る用がありまして、今、宿の者に命じてその笠を取り寄せましたので――。」

     女鹿男鹿

 それから数刻の後。
 膳部を下げた藤屋の二階には、江戸ものには珍しい丸行燈《まるあんどん》のともし灯をなかに、法外、大次郎、千浪の三人が、五徳《ごとく》の脚形に三つにひらいて坐っていた。
 山の庄屋のやしきをそのままに、旅籠《はたご》とはいっても、なんの手
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