、かれ出羽ふっと話題を変えて、
「久し振りだのう。うう――何と言われたかな?」
「何とと申しまして。何がでございます。」
「そなたの名だ。」
「あっ!」
 と、叫んで、千浪が逃げるように、思わず背後へ反った拍子に、ぬっと伸びて来た出羽の手が、彼女の手首へかかった。
「名なぞ何でもよい。山でそちを見かけた時分から――。」
 はっと千浪は思い出して阿弥陀沢の猿の湯で、父法外を手にかけた後、自分を捕えて、あの山腹の花畑まで伴れて逃げた白覆面の武士!
 あの人であったのか?
 なんという不覚! と、彼女が飛び退こうとすると、出羽は片手で、ぐっと千浪を手許へ引き寄せながら、片手を弥四郎頭巾の裾へ掛けて、
「そちの慕うておる良人の顔を見せてやろうか。」
 言いながら、さっと手早く頭巾を上げて、すぐに下ろした。初めて出羽守の顔をちらと見た千浪――そこに何を見たのか。
「あ、お許しなされて!」
 叫ぶように言うなり、早くも彼女は、高い所から暗黒の中へ墜落して行くような気がして、もう、気を失いかけたのだった。
 ちょうどこの時刻。
 日本橋を神田のほうへ渡って、魚市場へ曲がろうとする角のところに、やくざ
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