だけの泊りでげしょうが、男も女も手ぶらでね、荷物ひとつ無えんです。それに、武士は頭巾を――。」
 与助がそこまで言いかけた刹那、あの、日本橋詰の高札場から、千浪と白覆面の後を尾けて行った由公――承知の由公が、礫《つぶて》みたいに走り込んで来たかと思うと、そこの縁さきにぺしゃんと尻餅、馬鹿っ声を張り揚げたものだ。
「お! 親分! あ、会わす顔がねえ。晦《ま》かれた。見事にまかれた――。」
「げっ! あの白頭巾と娘を見失ったと?」
 からり! 長煙管を抛り出して起ち上った佐吉、
「そうか。仕方がねえ。」
 それだけ言うと、静かに背後へ手を伸ばして、茶箪笥の横に立てかけてあった脇差を取った。
「大次は、下谷の道場にいるとかいう噂だ。道場へ報せてやらざあなるめえ。下谷の練塀小路だ。由来い。」
 いきなり歩き出そうとするから、由公はあわてて、
「ちょっと、親分、待っておくんなさい。」
「親分たあなんでえ。野中の一軒家じゃあねえや。お客様の聞えもあらあ。旦那と言いねえ。」
「へえ、旦那――じつは、十軒店から本銀町まであ、ちゃんとうしろから白眼《にら》んで行きましたんで。それが、あそこの角へかかりま
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