刀《これ》があの女髪兼安なのであろう、塗りの剥げかかった朱鞘と、じぶんの蝋ざやの脇ざしとを、奇妙な一対に落し差して。
 この大次郎、下谷を出て以来、今までここに潜んで何をしていたのか――。
 ぶらりと来かかった高札の前である。
 呼ぶ声に何もの? と見向いたかれのまえに立ったのは、残して来た若妻千浪の、眉のあとの青い顔ではないか。
 あたりはいっぱいの群集だが、みな御高札をふり仰いでいて誰も気がつかない。
「や! そなたは何しにここへ――また、何の用ばしござって拙者に声をかけられたか。」
 大次郎様にしては、すこし声が太過ぎるようだ――と、千浪は思ったけれど。
 それに。
 頭巾の中から覗いている鼻柱も、赤く高く、眼が暗く澱《よど》んでいるようではあるが。
 何も気のつかない千浪は、
「大次郎様――。」
 ともう一度、低声につぶやいて、そっとその白覆面白装束の武士に寄り添《そ》った。
 この千浪は、
 良人大次郎は家出したものの、自分を嫌い道場を厭って去ったものとは、どうしても思えなかったので。
 お顔がああ変ってからというものは、事ごとに自分に辛く当って、まるで別人のように忌《いま》
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