刀《これ》があの女髪兼安なのであろう、塗りの剥げかかった朱鞘と、じぶんの蝋ざやの脇ざしとを、奇妙な一対に落し差して。
この大次郎、下谷を出て以来、今までここに潜んで何をしていたのか――。
ぶらりと来かかった高札の前である。
呼ぶ声に何もの? と見向いたかれのまえに立ったのは、残して来た若妻千浪の、眉のあとの青い顔ではないか。
あたりはいっぱいの群集だが、みな御高札をふり仰いでいて誰も気がつかない。
「や! そなたは何しにここへ――また、何の用ばしござって拙者に声をかけられたか。」
大次郎様にしては、すこし声が太過ぎるようだ――と、千浪は思ったけれど。
それに。
頭巾の中から覗いている鼻柱も、赤く高く、眼が暗く澱《よど》んでいるようではあるが。
何も気のつかない千浪は、
「大次郎様――。」
ともう一度、低声につぶやいて、そっとその白覆面白装束の武士に寄り添《そ》った。
この千浪は、
良人大次郎は家出したものの、自分を嫌い道場を厭って去ったものとは、どうしても思えなかったので。
お顔がああ変ってからというものは、事ごとに自分に辛く当って、まるで別人のように忌《いま》
前へ
次へ
全186ページ中108ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング