で――。」
「うむ。この七年間、われらを愚弄し抜いてまいった煩悩夜盗だ。きゃつのためには、お互いたびたび苦杯を舐めさせられたことは、覚えがあろう。江戸に岡っ引なしとまで言われて――それが、先ごろより、またもや暴れ出したのじゃ。」
「それは存じておりやすが――。」
 そう言って宗七は、じっと腕組をした。
 煩悩夜盗というのは。
 七年ほど前から深夜の江戸を荒らし出した怪盗で、警戒の厳重な富豪と言われる家のみを襲い、箱に入れて積んだ大金を担ぎ出して、しかも、何らの手がかりをも残さない。いや、手がかりといえば、いつも大きな手がかりがあるので――それは、この賊は押し入った家に、必ず「煩悩」の二字を書き残しているのである。
 それが、誰いうとなく煩悩夜盗の名を取った謂《いわ》れでもあるが。
 襖に、あるいは障子に、畳に、墨黒ぐろと大きな文字「煩悩」と――いつもきまって被害の現場に、雄渾な筆跡を揮《ふる》ってある。出張の役人、公儀、江戸中の人々を嘲るごとく、あわれむごとくに――。
 一度などは、日本橋の質屋へはいった時、文晁《ぶんちょう》の屏風いっぱいにこの煩悩の二字が殴り書に遺されてあった。
 
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