「へえ、じつあその、ちょっくら旅にね――。」
「ほんとに旦那。」お多喜が、手早く茶の支度にかかりながら口を入れて、「うんと油を絞ってやっておくんなさいましよ。さっきぶらりと、気が抜けたような顔をして帰ってまいりましてね、呆れ返るの雨蛙じゃアありませんか。」
「いや、お内儀《かみ》にさんざ叱られた後らしいから、おれあもう何も言うめえ。なに、おいらより、おかみの待ち焦れ方と言ったら――ははははは、なあ、お内儀、おめえ、ずんと痩せたようじゃあねえか。」
「あれま、旦那は相変らずお口の悪い。」
「なあに、里ごころがついて帰って来たんだ。思いきり可愛がってもらいねえ。」
「あんなことばっかり、ほほほ――どうぞ、ひと口お湿し下さいまし。」
 お多喜の差し出した茶を、伊予之進は、大きな音を立てて啜ってから、
「時に、宗七――。」
「へえ。」
「へえじゃあねえ。ぱっちりとこう、眼を開けな。またお前の出幕が廻って来たぜ。」
「とおっしゃいますと?」
「宗七様の帰りを待ちかねていたんだ。またあの、煩悩夜盗があちこちに出はじめた騒ぎでな。」
「では、あの、煩悩夜盗と名乗る押込みが、また、お膝下を荒しているん
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