、口のうちにひとり言を噛みしめて、
「大次郎さまはこのお山に、何か御用がおありだという話のようだけれど、お父さまは、いったいいつ江戸へお発《た》ちになるおつもりなのだろう。」
うす闇の迫る温泉《いでゆ》のなかに、じぶんのからだが、ほのぼのと白く浮き出て見える。
もう墨を溶《と》かしたような湯なのだが手に掬《すく》い上げて見ると、空の余映を受けて岩清水《いわしみず》のように明るいのである。上半身に残光を浴びて、千浪は、両手に湯をすくってはこぼしいつまでも無心に戯《たわむ》れているのだった。
猿《ましら》のようなつづら笠の男――文珠屋佐吉が、つい今し方まで、高い真上の木の枝から、こっそり自分の裸形を見下ろしていたことなどは、千浪、もとより知るよしもなかったので。
裸に憑入《みい》る魔の葛籠笠と、この凶精《きょうせい》に取っつかれた美しい処女《むすめ》と――。
ばしゃ、ばしゃと湯の音が、暮れなずむ谷あいの森閑《しんかん》とした空気を破る。
千浪が、上り支度をはじめたのだ。
小さな波をつくって湯がうごくと、底に立っている彼女《かれ》の足が、くの字を幾つもつづけたように、ゆら、ゆら
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