ある。
初太郎と宇之吉は、首吊をそのままに、申し合わせたように縁の欄干《てすり》へ駈け寄って下を覗いた。階下と同じ場所の雨戸が一枚繰られてあるほか、つい今し方までそこに垂れ下っていたお美野の死体は、二人が駈け上って来る間に、何者かの手によってこうした室内の中央《まんなか》に引き上げられて、下に見えるものは、初太郎の部屋から、開いている雨戸一枚の幅に黄色く流れ出て庭上《にわ》に倒れている行燈の焔影だけである。何ごともなかったように、夜は深沈と朝への歩みをつづけるばかり――。
検《あらた》めるまでもなく、お美野は扼死《やくし》している。あるいは絞殺されている。どっちにしろ、死体がひとりでに宙に浮いて、綱を引いて上って来ることは考えられない。お美野のからだは、宇之吉と初太郎が階段を飛び渡って走る短時間――ほんの秒刻のあいだに、急ぎ誰かが室内へ引っ張り上げたものに相違ないが――すると、その人間はどこへ行ったか?
階下で宙に垂れ下っている死体を見て、それから階段を一足踏びに上って来る時、この部屋を開けて出る物音もせず、長い廊下に人っ子ひとりいなかった一事は、初太郎も宇之吉も、太鼓のような判を押すことができる。他にどこも消えるところはないのだから、それなら、屍骸はやはり自力で引き競ってきたのだろうか――。
それとも、またこの室内《へや》に何者か潜んでいて――無言で顔を見合っていた宇之吉と初太郎は、はっとわれに返ったように、互いに警戒し合いながら、押入れの奥、念のために寝床の中まで掻き廻してみたが、広くもない部屋、ほかに隠れ場所はない。どこにも、お美野のほか人のいた気配さえないのである。
その時、ふたりの動きで夢を破られたお美野の妹の文字若が何ごとが起ったのかと睡そうな顔で二階へ上って来た。
六
「へえ、ただいま申し上げたような、そういうわけでございます、へえ。」
語り終って、ぴょこりと頭を低げた小金井穀屋の番頭初太郎を、釘抜藤吉の針のような視線が、凝《じ》っと見据えていた。
大根河岸は、露を載せた野菜の荷足《にたり》とその場で売買いする市場とで、ようやく喧嘩のようにざわめき出していた。その人混みを割って旅籠屋の大鍋へ着いた藤吉の一行は、すぐ、死体の引きずり上げられた階上のお美野の寝所へ通って、初太郎、宇之吉、文字若の証言《はなし》を、こうして藤吉は、先刻から黙りこくって聞いていたのだった。
迎えに来たに[#「に」に傍点]組の頭常吉のはなし半ばに鍋屋へ到着したので、中途から、発見者たる初太郎自身が後を引き継いで、この一伍一什《いちぶしじゅう》を話したのである。
釘抜藤吉は、それが熟思する時の習癖《くせ》で、ちょこなんと胡坐《あぐら》を組んで眼を開けたり瞑ったりしながら、しきりに畳の毛波《けば》を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》っている。何かまったくほかのことを考えているようなようすだった。勘弁勘次も神妙に口を噤《つぐ》んで、若いだけに殺された姉よりも美しい文字若の顔を、お得意の「勘弁ならねえ」も涸《か》れ果てていやにうっとり眺め入っている。葬式彦だけはけろり[#「けろり」に傍点]閑《かん》とこれだけは片時も離さない屑籠を背にてすりに腰かけてはだけたお美野の裾前を覗き込むように、例の「かんかんのう、きうのれす――」でも低声《こごえ》に唄っているのだろう。小さく、口が動いていた。
人気第一の客稼業である。女将が変な死に方をしたなどと知れ渡って宿泊人を驚かせても面白くないし、客足にもかかわる。そこは気丈夫な文字若がとっさに適宜の采配を揮って、まだ一切厳秘にしてあるのだが、口さがない女中どもの舌だけは制《と》めようがなく、もういい加減拡まったとみえて近所の人々、泊り客などの愕《おどろ》いた顔が、遠くの庭隅、廊下のあちこちに群れ集ってこそこそ[#「こそこそ」に傍点]ささやき合っているのを、に[#「に」に傍点]組の常吉が青竹を持った若い者を引き伴れてものものしく食い止めている。陽はすでに高く母家の屋根から顔を出して、今日も正月正月した、麗かなお江戸の一日であろう。消え残りの朝霧が、霜囲いした松の枝に引っかかっているように思われて、騒然たる河岸のどよめき、畳町、五郎兵衛町あたりを流して行く呼び売りの声々、漂って来る味噌汁の香、すがすがしい朝の風情《たたずまい》のなかに、ここ大鍋のお美野の寝間にだけは、解きようもない不可思議を孕んで不気味な沈黙が、冷たく罩《こ》め渡っていた。
と、この場合、奇抜なことが起った。釘抜藤吉が、大きな欠伸をしたのだ。
「ああうあ、と!」彼は、後頭部を抱いて傍若無人に伸びをしながら、「旦那衆はどうしたい。べらぼうに遅いじゃあねえか。」
「ほんとに、お役人様は、どうなすったのでございましょう。遅うございますねえ。」
不時の姉の死に、取り乱すだけ取り乱した後の、脱けたような放心状態にいる文字若だった。鈴のような眼を真っ赤に泣き腫らして、屍骸《ほとけ》の傍に坐わっていた。撥《ば》ちだこ[#「だこ」に傍点]の見える細い指で、死人の顔を覆った白布を直しながら応えた。まくら頭《もと》に供えた茶碗の水に線香の香りがほのかに這ってく[#「く」に傍点]の字を続けたように揺らいでいる――。
「いっそ気が揉めますでございますよ。でも、町内の自身番から、お届け願ったのでございますから、すこし手間取れましょうが、追っつけお見えになりましょう。」
藤吉は、文字若へにっこりした。
「師匠、凶死だからのう、おめえも諦めが悪かろうが、ものは考えよう一つだってことよ、まあ、それがお美野さんの定命だったと、思いなせえ。あんまり嘆いて、ひょっとお前が寝つきでもしようもんなら、姉妹ふたりで他に見る者のねえこの大鍋の身上は、それこそ大変《こと》だからのう。」
「はい。御親切にありがとう存じます。あたしゃこの階下の宇之吉さんの向う隣りの部屋に寝んでいたのでございますが、なんですか、あんまり二階の姉の部屋で雑音《ものおと》が致しますので、変に思って上って来て見ますと、まあ、親分さん、姉がこの有様――どうぞ、仇敵を――姉ひとり妹一人の大事な人でありましたものを、ほんとに親分さん、お力で仇敵を取って下さいますようお願い申し上げます。」
「うむ。」藤吉は首肯《うなず》いて初太郎へ、「お前ら二人とも、この外の軒先《のきさき》に、お美野さんが吊る下ってるのを見たてえのだな。それが、ふたりが二階へ上って来る間に、部屋の真ん中に引き上げられていた――。」
「そのとおりでございます。」
初太郎と宇之吉が、ごくりと生唾を飲み込んで、一緒に合点合点をすると、藤吉の笑い声が、やにわに彦兵衛へ向けられた。
「やい、彦。屍骸が自力で、綱を伝わって上ったとよ。あんまり聞かねえ話さのう。」
七
「けっ! 面白くもねえ、大方二階から、綱を手繰ったやつがあるんだんべ。」
「きまってらあな。」勘弁勘次が口を尖らせて、「引っ張り上げておいて、縁から庭へ飛んで逃亡《ずら》かったんですぜ、ねえ親分。」
「ま一度ちょっくら、仏を拝ませておくんなせえ。」
藤吉はそう言って、お美野の死体の傍に躙《にじ》り寄ると、はじめ一応|検《み》た時と同じように、ちょっと申訳にちら[#「ちら」に傍点]と頸筋を拭いて手をやってみたのち、それから、死体の首に結んであった細引きを両手に扱《しご》きながら、何か、考えていたことを確かめ得たものか急に藤吉、水を噴くように上を向いて笑い出した、晴ればれとした、小児のような微笑《わらい》である。いつまでも笑い続けているから、一同が呆気にとられていると、藤吉は、
「けちな小細工だあな。世話あねえ、綺麗に露《ば》れやがった。いま犯人を揚げて見せる。みんな随いて来い。」
と、やにわに起ち上るや否、戸外に面した縁側の干台に腰掛けている彦兵衛へ駈け寄って、いきなり耳を掴んだ。
「彦っ!」
「お、痛えや、親分。他人《ひと》の所有《もの》だと思って――。」
「ここを見ろ。」指さす干台の一点に細引きでこすったようなかすかな跡がある。しかも、その下の縁に、麻の擦り切れたものらしい白い埃り状の糸屑が、ほんのすこし落ち散っているのだ。
「黙って聞け。」
耳を引っ張って、藤吉は何ごとか囁き込む。にやり微笑《わら》って委細承知した彦兵衛、一足先に部屋を出て、急ぎ梯子段を下りて行く音。
「さあ、そこの番つく[#「つく」に傍点]初太郎どんに宇之吉さんとやら。御苦労かけてすまねえが、なに、係り合いだ。ちょっくら階下の初太郎どんの部屋まで降りてもらいますべえか。」と藤吉は文字若を顧みて、「師匠、仇敵が取れるぜ。」
「あれ、親分さん、ほんとでございますか。」文字若はもう顔色を変えている。「お嬲《なぶ》りなすっては嫌でございますよ。」
「うふふ、せっかく、狂言《しべえ》の幕の割れるところだ。面白えから付いて来なせえ。」
おろおろしている宇之吉初太郎の両人を、六尺近い腕力家の勘弁勘次に守らせ、それに、今すぐ謎の下手人のわかると聞いて勇みと憎悪に顔色を蒼くしながら欣《よろこ》ばし気にいそいそ起って来る文字若――四人を伴れて、藤吉は、その真下の初太郎の部屋へ降りて来た。
部屋へはいると同時に、急な変化が藤吉の態度に現れた。その釘抜のような脚で大股に、かれは縁の外側の敷居――雨戸の敷居――の戸袋寄りのところ、ゆうべ初太郎がそこを開けてお美野の死体が宙乗りしているのを見たという、その一枚分の敷居へ、つかつかと進むと、もう藤吉は、一分前とは別人のように、笑いの影など顔のどこにも見られなかった。
四人の眼前で、藤吉、不思議なことをはじめている。
最初は指で、敷居の縁をしきりにこすって見ている。
つぎに、敷居のそばにぴったり坐り込んで、今度はふところから一、二枚の懐紙を取り出してそれで縁を拭き出したのだ。
何がなんだかわけがわからないで、四人はぼんやり凝視めていると敷居の縁を拭いた紙が黄色く染まって光っているのを、藤吉はとみこう見したのち鼻へ持って行って、
「ふむ、胡麻《ごま》だな――。」文字若を振り返った、「まだ新しいところを見ると、昨日あたり、ここの敷居へ胡麻油を引かなかったか、師匠、お前は知らねえかえ。」
「そう言えば、古い家で建付けが狂っているので戸滑りが悪いとか言って、きのう姉が、じぶんで油壺を持ち歩いて方々の敷居に落して廻っていたようですよ。」
「違えねえ。」
頷いた藤吉は、ちらと勘次に眼配せして退路の障子ぎわを断たせると、ずいと三人の前に立ちはだかって、冷徹な低声だった。
「おうっ、三人とも足を見せてくんな、足をよ。」
唐突にこの奇抜な注文――びっくりしているところ、藤吉はすぐに畳みかけて、
「宙乗りしていた屍骸の足は、たしかに素足だったのう。間違えあるめえのう。」
「とんでもない! 見間違いなど、決してそんなことはございません。はい、わたしもこの宇之吉さんも、はっきり見たんでございますから――へえ、素足でございました。立派にはだし[#「はだし」に傍点]でございました。へえ。」
「そうけえ。その素足の件で、おいらあちっとべえ不審を打《ぶ》ったことがあるんだ。おお、揃って素足になってみな。」
「素足になるんでございますか、私ども三人が。」
おずおず訊き返した初太郎を、藤吉は噛みつくように呶鳴って、
「くでえや! 足袋を脱げ!」
「あっしゃあこのとおり、初めから足袋なんか穿いていやせんが、」宇之吉はまごまごしながら、「この素足を、いってえどうするんでごぜえます。」
「まあ、待っていなせえ――おう、師匠、ついでだ。お前の足も一つ拝ませてもらおうじゃあねえか。」
「ひょんな親分さん! こんな汚ない足でおよろしければ、お安い御用でございますよ。いくらでも御覧なすって――。」
「どうしてどうして、勘の言い草じゃあねえが、弁財天といわれる師匠の足だ。めったに拝見できるもんじゃあねえ。これも岡っ引の役徳で、稼業《しょうべえ》冥利よなあ、師
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