んだ藤吉、勘次、彦兵衛の顔を、探るように見廻している。事件|出来《しゅったい》とみて、紙屑拾いに出かけようとしていた葬式彦も引き留められ、勘次は、あわてふためいている常吉を案内して広くもない玄関《いりぐち》へ通すと、破れ半纏をひっかけた藤吉親分が、鳩尾《みぞおち》の釘抜の文身《ほりもの》をちらちらさせて、上り框《がまち》にしゃがんでいたのだった。片方に荒塩を盛って房楊子を使いながら、
「朝あ結構冷えるのう。」と、じろりに[#「に」に傍点]組を見上げて、「のう常さん、知ってのとおり、おらあ気が短えんだ。長話は願い下げよ。なんですかい、その、大鍋の泊り客で武州小金井の穀屋の番頭初太郎てえのが、夜中にひょっこり起き上がって、戸惑いでもしたってえのかい。」
 勘次も彦兵衛も、にやりと顔を笑わせたが、に[#「に」に傍点]組の常吉は、冗談どころではないといったふうに大仰《おおぎょう》に手を振って、
「なんの、なんの――。」ちょっと声を低めた。「親分、愕きなさんなよ、戸惑いは戸惑いでも、お美野さんが彼の世へ戸惑いをなすった――。」
 えっ! とでも驚くかと思いのほか、藤吉の表情《かお》は依然として石のようである。大声を揚げたのは勘次だった。
「なにっ? お美野さんが――そ、そいつぁ勘弁ならねえ。彼の世へ戸惑いといやあ自害だろうが、してまた何の理由《わけ》あって自害なんど――。」
「さ、それがよ、なに、戸惑いとは言ったものの、勘さんの前だが、自害ではねえのだ。」
「なにを言やがる。勘弁ならねえ。あの弁天様のようなお美野さんを手に掛けるやつが、日本じゅうにあるはずはねえんだ。」
 とむらい彦が、いつになく馬鹿叮嚀に口を挾んで、
「ま、お美野さんがお故《な》くなりになったとすりゃあ、ちょっくら蔵前へ走らせたでごぜえやしょうな。常磐津の名取りで文字若さんてえ女が、お美野さんの妹さんでね、三好代地《みよしだいち》に稽古場の看板を上げていなさるのだが――。」
「いや、人をやるもやらねえもねえ。」に[#「に」に傍点]組は、想い出したように新たに狼狽しながら、「運よくその師匠の文字若さんが、四、五日前から鍋屋さんに泊り込みでね、あっしゃあ今の先、大鍋さんの若い者に叩き出されて駈けつけたんだが、文字若さんの命令《いいつけ》で、すぐ、こちらの親分をお迎えにこうしてすっ[#「すっ」に傍点]飛んで来やしたのさ。素人のあっしなんか、どうにも勘考《かんがえ》のつけようのねえ不思議な死に様《ざま》だあね。何て言ったってお前、お美野さんの屍骸がよ、その初太郎てえ野郎の眼の前で、こう宙乗りをやらかしたんでごわすからな――あうへっ! これだけは釘抜の親分も、どうやら手を焼きゃあしねえかと、ま、こいつああっしの、余計な心配かもしれねえが――。」
 すっくと起ち上った釘抜藤吉だった。五尺そこそこの矮躯《わいく》に紺の脚絆、一枚引っかけた盲目縞《めくらじま》長ばんてん、刀の下緒のような真田紐《さなだひも》を帯代りにちょっきり結んで、なるほど両脚が釘抜のように内側へ曲がっている。いわゆるがに[#「がに」に傍点]股というなかで、もっとも猛烈な部に属する。慾目にも風采が上っているなどと言えないばかりか、正直のところ、まず珍々妙々なる老爺であった。
 藤吉は、鷲掴みにした手拭いをはだけ[#「はだけ」に傍点]た懐ろから覗かせて、ちょこちょこと土間に降り立った。話なかばだから、驚いたのはに[#「に」に傍点]組だった。出口を塞ぐように立ちはだかって、
「親分、どちらへ――。」
 言いかけた彼は、二度びっくりしなければならなかった。つと振り向いた藤吉の顔である。別人のような活気が漲って、獲物を香《か》ぎつけた猟犬の鋭さが、その眇《すがめ》の気味のある双眼に凝って、躍動して、放射している。その瞬間、に[#「に」に傍点]組の頭常吉は、この藤吉の眼の光に、柄にもなく現世で一番美しい、そして一ばん恐しい物を見たような気がした。それは、人間の意力が高潮に達した時に発する、一種の火花のようなものかもしれなかった。

      四

「どこへ行く? べら棒め! 知れたこっちゃあねえか、大鍋へ出張って、ちっといじくってみべえか――勘、汝も来い。」
「あい。」
「彦、手前も気になるようなら随《つ》いてくるがいいや。」
「へえ。お供させていただきやす。」
「頭あ、ことの次第はみちみち承るとしよう。」
 勘次が、戸前の焚火に水をぶっかけてそのまま合点小路を立ち出でた。なんとも奇妙な同行四人である。まともな恰好をしているのは常吉だけで、取られつづけの博奕打ちのような藤吉親分、真っ黒な痩せた脛で味噌こし縞ちりめんの女物の裾を蹴散らかして行く勘次兄哥、どんな時も商売を忘れないで、紙屑、鼻緒、木ぎれ、さては襤褸《ぼろ》でござれ何でござれ、歩きながら器用な長箸で摘んでは肩越しに竹籠へ抛り込んでゆく葬式彦兵衛――何のことはない、さながら判じ物のような百鬼|朝行《ちょうこう》が、本八丁堀三丁目、二丁目、一丁目とまっすぐに、松屋町宗印屋敷を左手に弾正橋を渡ると、本材木町八丁目、竹川岸から大根河岸までは、京橋を越えてほんの一足だ。炭町、具足町《ぐそくちょう》の家々の庇《ひさし》の朱いろの矢のように陽線《ひかり》が躍り染めて、冬の朝靄のなかに白く呼吸づく江戸の騒音が、聞こえ出していた。
 藤吉は途中に[#「に」に傍点]組と並んで、ゆうべ白魚屋敷の大鍋こと鍋屋で行われた女将《おかみ》お美野殺しの一件を、聴いているのかいないのか、それでもときどき相槌を打ちながら、片裾を掴み上げて足早やに急いでいる。

      五

 小夜嵐?――しきりに雨戸が鳴る音で眼をさました初太郎はしばらく家の中でじっと耳を澄ました。たしかに風も出ているようで、戸を洩る空気の揺らぎで枕行燈の火が小忙《こぜわ》しく明暗の色を投げる。皿の底の残りすくなの油を吸う音が、どうかすると虫のように聞こえて、初太郎は、時刻を忘れて妙にしんみり秋だなあと思ったりした。
 小金井宿の穀屋の番頭初太郎は、その朝江戸へ出て来たばかりだった。卸し先に店じまいをする家があって、そのほうの掛け金の整理と二、三心当りのある新しい顧客《とくい》を開拓するために、一月は滞在の予定だった。で、江戸へ着くとすぐ、定宿の大鍋に草鞋を脱いだのだが、二、三日は寝て暮らして旅の疲れを休めるつもりで、その晩はすこし早目に枕に就いたのだった。
 それが、大分眠ったと思うころ、ぽっかり! 眼が覚めたので、初太郎は、もう朝になったのではないかという気がした。そう思うと、雨戸を鳴らす風も暁風《あさかぜ》のように考えられるし、気のせいか戸の隙間に仄白い薄明りさえ感じられた。それにしては、世間が死のように静かなのが――初太郎はむっくり起き上った。宿のどてらを羽織って、小首を傾げながら縁側へ出た。
 縁側へ出た拍子に、がたんと大きく、雨戸が鳴った。端寄りの一枚である。どうしても風ではない。その雨戸の真ん中辺へ何か固い物が外部《そと》からぶつかった音に相違ないのだ。初太郎は手早く桟を下ろして、雨戸を引いた。とたんに、湿気を含んだ濃い闇黒《やみ》が、どっと音して流れ込む。初太郎はぶるると身震いをしながら、庭の奥を見定めようとするように、軒下の闇黒に首を突き出した。が、遠くを見るまでもなかった。その、戸外へ伸ばした初太郎の鼻っ先に、だらりと二階から下っている人間――首吊――女らしい。そうだ、女の首吊だ。風に吹かれている。大きく揺れている。小刻みにふるえている。庇越しに、階上《うえ》から細引で垂れ下がっているのだ。
「あおっ!」
 と、出そうとしても出ない声を出して、初太郎は風に突き飛ばされるように一瞬に部屋に転げ込んでいた。無意識だった。あたまから蒲団を被って、もう一度叫ぼうとした。声を成さなかった。初太郎の聞いたものは、自分の歯の細かくかち[#「かち」に傍点]合う音だった。そしてそれは、まるで鍛冶屋の乱打ちのように、耳いっぱいに響いた。
 悪夢?――しかし夢ではない。初太郎はこわごわ床のうえに起き上って見ると、紛《まぎ》れもない女の首吊が、雨戸のすぐ外に宙乗りして、一段黒く遮ぎっているのだ。風を受けて、前後左右にしずかに揺れている。そればかりか、凝視《みつ》めているうちに首吊は、すう、すうと上から誰かが引き上げるように、五寸ぐらいずつ競りあがって往くではないか――。
 初太郎は、眼をこすった。見直すまでもなく、女だ。女の首吊だ。この鍋屋のお美野だ。
「うわあっ!」と、両手を頭のうえに振り廻して、初太郎は、弾《ば》ね仕掛けのように躍り上っていた。
「お女将さんだあ――!」
 ここは大鍋の別棟で、母家とは庭つづき、客が立て混まないかぎり、普段は家うちの者が寝泊りをするところとなっているのだが、その晩は混んでもいたし、それに、小金井の初太郎は以前《まえまえ》からの定客なので、なかは内輪あつかいにその部屋を当てがわれたのだ。で、初太郎の真二階《まうえ》は、女将お美野の寝床になっている。だからお美野は、じぶんの居間の縁側から、細引きで、階下の初太郎の縁のそとへ吊り下っているわけで、首吊は、初太郎のほうへ背中を向けているのだが、そのお美野の着ている荒い滝縞の丹前に、初太郎は覚えがあった。宵の口から風邪気味だといって、お美野は先刻帳場でもその丹前を羽織っていたことを、かれは思い出した。首吊の髪は、手拭いをぐるぐる巻きに結い込んでいる、俗にいういぼじり[#「いぼじり」に傍点]巻きである。頸に細引きがかかって、それでぶら下っているのだろうか、綱は、暗くて見えなかった。首吊は見るみる競り上るように、のし上るように、軒の下をまっすぐ棒のように揺れ昇って往く。丹前の裾から覗いている足は、素足だった。はだしの足が、二つ並んでぶらぶらして、それが雨戸に当ってああして音を立てたのだった。
 呆然と見守っていた初太郎は、気がつくと同時に廊下へ駈け出して、向側の部屋へ跳び込んでいた。寝る前に風呂場でちょっと顔が合っただけの、全然識らない人だったが、そんなことは言っていられなかった。突っ走るような初太郎の声で、四十余りのでっぷりした男が、すぐ蒲団を蹴って起きて来た。これは仙台様へ人足を入れている堺屋小三郎の小頭《こがしら》で宇之吉という、しじゅう国許と江戸表とを往復している鳶の者だった。初太郎が呆気にとられている宇之吉を、無言で自分の部屋へ引っ張って来て、雨戸の外に吊り上って行く首吊を見せると、宇之吉も、顔いろを変えた。
「お! これはお女将さんじゃあねえか。どうしたというんですい。」
「どうもこうも――、」初太郎は、口がきけなかった。「ふっと眼が覚めたら、あれが――あんなものがぶら下ってるんで。」
「はてな、なんにしても大変事だが、自分で縊れ死んだものなら首吊が競り上って行くという法はねえ。」宇之吉は考えて、「この二階《うえ》がお女将さんの寝間でごわしたな。上ってみよう。」
 初太郎のいるすぐ外が、中廊下の往き止まりになっていてそこに、二階へ上る唯一つの梯子段がある。上るにも降りるにも、此段《ここ》を通らなければならないのだ。二人は息せききって二段ずつ一跨ぎに駈け上った。二階も同じ造りである。切込みの角行燈が、ぽつんと人影のない長廊下を照らして、どの部屋も眠っているらしく、しいん[#「しいん」に傍点]としている。取っつきのお美野の寝間には、有明行燈の灯がぼうっと障子に翳《かす》んで、何の異状もありそうに思えない。が、時を移さず踏み込んだ二人は、室内の様子を一眼見るより、二度ぎょっとして立ちすくんでしまった。今のいま外にぶら下っていたお美野が部屋の真ん中の寝乱れた床の傍に、仰向けに倒れている。闇黒に揺れていた荒い滝縞の丹前を踏みはだけて、白い膝がしらを覗かせ、素足の足に苦悶の力が籠もって、指がのけ[#「のけ」に傍点]反っているのだ。首に巻いた細引が、蛇のように畳の上を這って、一端は、違い手の小柱に固く結んであった。室には、ほかに誰も人はいないので
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