字若がとっさに適宜の采配を揮って、まだ一切厳秘にしてあるのだが、口さがない女中どもの舌だけは制《と》めようがなく、もういい加減拡まったとみえて近所の人々、泊り客などの愕《おどろ》いた顔が、遠くの庭隅、廊下のあちこちに群れ集ってこそこそ[#「こそこそ」に傍点]ささやき合っているのを、に[#「に」に傍点]組の常吉が青竹を持った若い者を引き伴れてものものしく食い止めている。陽はすでに高く母家の屋根から顔を出して、今日も正月正月した、麗かなお江戸の一日であろう。消え残りの朝霧が、霜囲いした松の枝に引っかかっているように思われて、騒然たる河岸のどよめき、畳町、五郎兵衛町あたりを流して行く呼び売りの声々、漂って来る味噌汁の香、すがすがしい朝の風情《たたずまい》のなかに、ここ大鍋のお美野の寝間にだけは、解きようもない不可思議を孕んで不気味な沈黙が、冷たく罩《こ》め渡っていた。
 と、この場合、奇抜なことが起った。釘抜藤吉が、大きな欠伸をしたのだ。
「ああうあ、と!」彼は、後頭部を抱いて傍若無人に伸びをしながら、「旦那衆はどうしたい。べらぼうに遅いじゃあねえか。」
「ほんとに、お役人様は、どうなすった
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