りした。
 小金井宿の穀屋の番頭初太郎は、その朝江戸へ出て来たばかりだった。卸し先に店じまいをする家があって、そのほうの掛け金の整理と二、三心当りのある新しい顧客《とくい》を開拓するために、一月は滞在の予定だった。で、江戸へ着くとすぐ、定宿の大鍋に草鞋を脱いだのだが、二、三日は寝て暮らして旅の疲れを休めるつもりで、その晩はすこし早目に枕に就いたのだった。
 それが、大分眠ったと思うころ、ぽっかり! 眼が覚めたので、初太郎は、もう朝になったのではないかという気がした。そう思うと、雨戸を鳴らす風も暁風《あさかぜ》のように考えられるし、気のせいか戸の隙間に仄白い薄明りさえ感じられた。それにしては、世間が死のように静かなのが――初太郎はむっくり起き上った。宿のどてらを羽織って、小首を傾げながら縁側へ出た。
 縁側へ出た拍子に、がたんと大きく、雨戸が鳴った。端寄りの一枚である。どうしても風ではない。その雨戸の真ん中辺へ何か固い物が外部《そと》からぶつかった音に相違ないのだ。初太郎は手早く桟を下ろして、雨戸を引いた。とたんに、湿気を含んだ濃い闇黒《やみ》が、どっと音して流れ込む。初太郎はぶるると身
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