るのだった。
ぱちんと指を鳴らす――その間の出来事だったに相違ない。
が、それにしても、あんなに膂力《りょりょく》すぐれた大石武右衛門が、こんなに簡単に殺されるなどということが、あり得るだろうか。頸部を巻いて絞めたのは、どうも三味線の糸を五、六本かためて撚《よ》ったようなものらしいと、藤吉は、局所の皮膚の捻《ねじ》れ工合いなどから判断したのだが、それならいっそう、そんな糸で首を絞めつけたぐらいで、あの武右衛門が即死しようとは、どうしても呑み込めないのである。が、ものには弾《はず》みということがあるから、一歩譲って、そんなことで絞殺されたものとしても、あの武右衛門である。いくらとっさの不意打ちとは言え、相手が悪鬼魔神でないかぎり、武右衛門も、争ったに相違ない。いや、たとえしばらくでも、文字どおり死力を尽して抵抗したにきまっている。この狭い廊下で、鯨のような武右衛門が生への本能に促されて何ものかと格闘した。相当暴れた――ものと想像していい。大男が、死ぬまえの※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きである。どんなにか必死の、どたばた騒ぎだったことと思われるのだが、それが、この、廊下に面した部屋に、出の仕度を急いでいた紋之助とおこよに聞こえなかったというのは、尠くとも、ふたりがちっとも気づかなかったというのは、いくら、出方の藤吉や席主幸七の言うように、ちょうどその時武右衛門と代り合って娘手踊りの梅の家連が高座へ上ったばかりで、ここは鳴物のもっともやかましく響く場所なので耳にはいらなかったのだろうとの説明があっても、釘抜の親分には、これがずんと胸に納まるというわけには、いささか往かなかったのだった。
そう言えば、腑に落ちないことだらけである。
高座で力業を演じていた武右衛門を、藤吉は、あんなのにかぎって妙にころりと死ぬものだと言ったが、それが、まさにそのとおりに、まるで藤吉の言葉に従わなければならなかったように、高座を下りると同時に、ここにこうして死んだのも言いようのない不思議ではあったが、これはもちろん、単なる偶然に過ぎないので、しかしそれを、藤吉のにらみに帰して、親分の眼はこうまできくのかと、薄気味悪く呆気に取られているところに、とむらい彦兵衛の藤吉に対する信頼と誇りが見られるのだった。
藤吉は、すこし間がわるい。内心笑いながら、さながら言い当てたように、彦兵衛の顔を大得意に見せているのである。
が、いつしか彼も、そんなことで呑気《のんき》に構えてはいられなくなった。
二二んが四、二三が六――これならなんでもないが、この武右衛門の死は、二二んが五、二三が七でもあり、八でもあろうという、異中の異である。理外の理である。
釘抜藤吉も、とくと思案しなければならなかった。
思案に落ちると、かれは爪を噛む習癖《くせ》がある。
で、いま藤吉は、こうしてしきりに爪を噛んでいるのだ。
六
高座からは、梅の家連の踊りの足ぶみ、手拍子が、お囃しの音とともに、賑やかに聞こえて来ている。
四、五人が、細い廊下に重なり合って武右衛門の屍骸を覗き込んで、みな集っていた。
戸外《そと》は、初夏の夜の霧雨が、濃くなって行くらしい。
近くの紀伊の国橋のはし桁《げた》を鳴らして、重い荷を積んだ大八車の通り過ぎて行く音が、どうかするとかみなりのように大きく長く、つづいていた。
銀兵衛が立ち去って行くと、藤吉は、席主の幸七と葬式彦兵衛を伴れて、高座の上り口近い、はだか蝋燭の立っている戸のそばまで、引っ返した。
戸の隙間から高座を覗くと、列なって踊っている女たちのうしろ姿が見える。
藤吉は、何か言おうとして幸七をふりかえったが、その時、右隣の、出番の近い芸人たちが待ち合わせることになっている小部屋に、文楽のような、人形師紋之助の操り屋台が置いてあるそのそばに、ひそひそ心配そうに話し合って、話し家の円枝と、紋之助の三味のおこよとが、しょんぼり立っているのが藤吉の眼にはいった。
おこよは、生え際の美しい、眼のぱっちりした、まだ娘むすめした顔である。
二人とも、藤吉の視線を受けて、何も言わない先に、昂奮して蒼くなっている額を持って来た。
こわごわ藤吉のほうへ屈んで、円枝が、
「武右衛門さんに、変り事があったようでげすが、べつにたいしたことは――。」
狭い咽喉を出るような、かすれた低声《こごえ》だ。いつも高座で人を笑わせているところばかりを見ているだけに、またおどけたことを吐くのが稼業で、地《じ》の奇妙な顔が身上《しんじょう》になっているので、この男がこうして真面目なのは、なんとも不気味で、ほとんどもの凄いような感じさえするのだった。
「おうさ。」藤吉親分の、無表情な応答《こたえ》である。「別にたいしたこたあねえやな。ちょいと、絞め殺されただけよ。全体、場ふさぎな図体をしやあがって、から[#「から」に傍点]だらしがねえじゃあねえか。なあ、円枝師匠、ははははは。」
「じょ、冗談じゃあねえ、親分」円枝は、どぎまぎして、それでも、嬉しそうに、「若いものを持ち上げなさるのは、罪でさ。あっしは、まだ師匠なんて言われる身分じゃあございません。」
言いながら、ちらとおこよを顧みた円枝の眼に、押さえきれない誇らしい影のあるのを看て取った藤吉は、これは、円枝はこの女に大分心を動かしているな、ことによると、このふたりのあいだに――と、ひそかに結びつけて当りをつけながら、何気なく藤吉が言葉を向けたのは、うしろにいる席主の幸七へだった。
「この梅の家の踊りてえのは、もうじきすむんじゃあねえのかえ。」
「へえ、もう下りますころで。」
「屍骸を見せずに、この部屋から、むこうの溜りへ帰すようにしな。廊下を通らしちゃあいけねえ。」
そういっているところへ、高座の上り口が開いて、眼のまえに華やかな色彩《いろ》が揺れ動いたかと思うと、梅の家の女たちが四、五人、がやがや言って廊下へ降りて来た。
「おい、つぎは花さんだ。」幸七が、高座を明かせまいとして、芸人たちの溜りのほうへ声を高めた。
「花さんは、何をしてる――。」
「おやおや、ものを食うひまもありゃあしない。」
楽屋で弥助を摘《つま》んでいた浮かれ節の花坊主が、口いっぱいに頬張ってもごもごさせながら、
「はい。おん前に候。ごめん下さいまし。」
藤吉たちのあいだをすり抜けて、高座へ出て行った。頭をあおあおと丸めて、古代むらさきのしぼり[#「しぼり」に傍点]のあらい縮緬の羽織をずり落ちそうに、真っ赤な裏をちらちら見せている。
「ええ――かわりあいまして、かわり栄えもございません。毎度お耳お古いところで恐れ入りますが、おあとには、おめあてが続々繰り込んでおりますので、手前はやはり、うきよぶしを二つ三つ、なあんて、いい気なもので、さあ――。」
花坊主の声が、高座うらの藤吉の耳にも、遠く籠《こ》もったものに聞こえて来る。
廊下を行こうとした梅の家連の女たちは、幸七に引き止められて、追われるように、すぐ横側の部屋へ上った。
何ごとが起ったのか――と、不審げにしている若い女たちのまえに、藤吉が立った。
が、そこの廊下に、あの武右衛門が仰向になって横たわっていることが、誰からともなくすぐ伝わったとみえて、急に、女どもの白い顔に、恐怖が来た。
藤吉は、その、一列にならんでいる梅の家連中を、覗って、例の眇《すがめ》で、右から左へ、左から右へ、二、三度じっと、撫でるように見渡していたが、やがて、口の隅から呟くように、
「踊りてえものは、難かしゅうごわしょうな。」
一応、調べられる――と思っていたのが、藪から棒に、この問いだったので、女たちは、変に拍子抜けがして、いそいで互いに顔を見合った。金魚のように、長い袂をゆすって、笑いかけた女もあった。ひとり、少し年長《としかさ》らしいのが、
「はあ。でも、親分さんなどは、お器用でいらっしゃいますから――。」
「はい。おいらだってこれで、まんざらでもねえのさ。」
こういって藤吉は、やにわに、妙な恰好に両足を動かして、踊りの身振りのようなことをして見せた。
梅の家連は、武右衛門の死を忘れて、きゃっきゃっと笑いこけて奥へ駈けこんで行くし、幸七も、ぷっとふきだしたが、本人の藤吉と彦兵衛だけは、にこりともしなかった。
七
「円枝さんは、先に引っ込んだ。おこよさんは、ここで、紋之助師匠と話しこんでいなすったのだね。」
藤吉は、まだそこにぼんやり立っていた円枝とおこよへ、声をかけた。
円枝が、きょとんとして、答えた。
「へえ。あっしは、武右衛門さんに高座を渡して、ずっとこの裏の溜りで馬鹿っ話をしておりました。すぐ帰るつもりだったんですが、来る途中、下駄の緒を切らしてしまって、楽屋番の銀おやじがすげて[#「すげて」に傍点]いてくれるんですけれど、それがなかなか立たねえので――今も、待っているところでございます。」
おこよは、静かな眼を藤吉の顔に据えて、しとやかにうなずいた。
「おまはんに訊くが」と、藤吉はおこよへ、「廊下に、誰も見かけなかったかね?」
「はい。武右衛門さんが高座を下りて、この前を通って行ったきりで――。」
「そりゃあわかってらあな。」
「しばらくして、藤吉どん――出方の藤どんが、おもてから来たようでしたが、そのとき、師匠と一しょに、わたしはこのつぎの間の化粧部屋へはいりましたので、後のことは――。」
「いまはじめて武右衛門の――騒ぎを知りなすった?」
「さようでございます。」
おこよと円枝が、一緒に答えると、藤吉はじっと口びるを咬んでいたが、
「竹久の師匠は――?」
「溜りに、出を待っております。」
「ほかに、この辺に人はいなかったといいなさる。」
「はい。どなたも見かけませんでございました。」
「おう、円枝さんえ。」藤吉は、不意に声を落して、顔を突き出した。「隠しちゃあいけねえ。おっと、あわてるこたあねえのだ。おまはん、武右衛門とは、普段から仲が悪かったろうな。」
急に蒼褪《あおざ》めた円枝が、無言で、口を開けたり閉じたりしていると、おこよが言葉を挾んで、
「それは親分さん、あたしから申し上げます。武右衛門さんも、そりゃあ好い人でしたけれど、うるさくあたしにつきまとって、あんまりくどいんで、それに、あたしが嫌がってることを知ってるもんですから、なにかにつけ、円枝さんが買って出てあたしを守護《まも》って下すったんです。」
「とんだ惚気《のろけ》だ。」苦笑が、藤吉の口を曲げた、「ここらあたりと狙って、ちょっと一本|放《ぶ》ちこんでみたんだが、おこよさんの口ぶりじゃあ、どうやら金の字だったようだのう。」
にやりと、彦兵衛をかえり見ると、とむらい彦は、立ったまま寒そうに貧乏揺ぎをしながら、
「親分、あんな大の男が、どうしてああちょろっと絞め殺されたのか、それがあっしにゃあ、まだわからねえ。」
「べら棒め、おいらにもわからねえことが、彦づらに解ってたまるけえ。」
「だがね、親分。こりゃあ、絞め殺されたというよりあ、首に紐を巻かれて、はっとしてあわてる拍子に、自分で縊れ死んだ――んじゃあねえか、と、まあ、こいつああっしの勘考だが――。」
「でかしたぞ、彦。じつあおいらも、そこいらのところと――つまり、武右衛門は、いわば自力で縊ったようなものと、とうから踏んでいるのだ。が、誰が、どうやって、廊下を通ってる武右衛門の頸部へ、紐を巻いたか――。」
「影の仕業《しわざ》だね、親分。」
「そうよ。影の仕業よ。でその影あ――。」
「そこだて――。」
彦兵衛が、しっくり腕を組むと、藤吉は、珍しくにこにこして、
「彦、一足だ。よく考えてみな。おいらにゃあもう、およその当りはついてるんだ、ふははははは。」
銀兵衛や梅の家連の報せで、芸人の溜りから人が出て来て、楽屋うらは、騒ぎになりかけていた。
操り人形の名人として知られている竹久紋之助も、いつの間にかその部屋へはいって来ていて、おこよと円枝のうしろに、気むずかしそうな、老いた
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