顔が見えていた。
 余程の老齢らしく、柿色の肩衣をつけたからだも、腰がまがり気味に、油紙のような皮膚、枯木のような顔――弱い、いたいたしい老名人だった。
 紋之助を見つけた藤吉の眼が、やさしく微笑した。
「竹久の師匠じゃあごわせんか。」
 おこよが、びっくり振り向いて、
「あら、ほんとに――。」
「どうもとんだことで――お役目御苦労に存じます。」
 慇懃《いんぎん》に藤吉へ挨拶して、幾分迷惑そうに、紋之助老人は、前へ出た。
 藤吉が、
「ねえ、師匠、障子に影だけ見えて、それで、肝腎の人はいなかったというんで――この、二方口の廊下の、いってえどこへ消えたもんでげわしょうのう。」
「なあるほど。奇怪なこともあればあるもので――。」
「それより、首っ玉に紐を巻かれながら、どうして武右衛門さんは、相手を掴みつぶしてしまわなかったか――それが不思議でならねえ。」
「いや、まったく、ね。」
「なにしろ、あの力でがしょう――。」
「あの力だ――。」
「手が、届かなかったのかな。」
 独りごとのように言って、藤吉は、高座の上り口の蝋燭を、じいっと見つめていた。
 紋之助は、首を捻っただけで、答えなかった。

      八

「親分さん、もう死体を取り片づけても、ようがすかね。」
 男衆の藤吉が、訊きに来ても、藤吉は黙って、蝋燭の灯を見つづけながら、かすかにうなずいたきりだった。
 すぐに、多勢の手で、重い武右衛門の死体を運ぶらしく、騒がしい人声と物音が、障子のそとの廊下に起って、遠ざかって行った。
 紋之助は、じっとそれに聞き入るように、耳を澄ましているふうだった。
 高座から、花坊主の唄う浮世節の節廻しが、粋《いき》に、艶っぽく洩れて来ていた。
 藤吉が、おこよを片隅へ、さし招いた。
 二人は、人形舞台の向うに立って、低声だった。
「おめえさんは、師匠の何かね。」
「何と申して、」おこよは、意外な面持ちで、「三味でございます――。」
 紋之助老人が、聞きつけて、
「三味だけじゃあねえんで。私の人形の片手でございますよ。紋之助の人形は、おこよの糸に乗ってこそ、はじめてお客様の御意を取り結びます、はい。」
「あら、そんなこと――。」
 おこよは、初心《うぶ》らしく、顔を赧くして打ち消しながら、紋之助を見た眼を、藤吉へ返した。
「竹久の大師匠の芸でございますもの。あたしの三味《いと》は、邪魔をするだけ――。」
「おこよさん、」藤吉は、ちょっと改まった。「おいらあ、こんな厄介な探索は初めてだ。手も足も出ねえありさまだが、どうですい、あの武右衛門てえ野郎のことを、もそっと聞かしちゃあくれめえかの。」
「武右衛門さんのことって、あたしは何も知りませんけれど、なんでも、みなさんと仲が悪かったようでございますよ。もう仏ですから、あしざまに言うのはなんですけれど、ほんとに、厭なお人でござんした。」
「ふうむ、どうしてまた、そんなに厭《きら》われたんで――。」
「どうしてと申して、」と、おこよはちょっと逡巡《ためら》ったが、「女好きで、そのうえ、自分は大の色男のつもりで――うるさいったらないんです。」
「あの男は、今度越後の山奥とかから出て来て、ここで初めて顔が合ったんじゃあねえのかえ。」
「仲間の種《たね》を割るようですけれど、死んだ人ですから構いません。いいえ、今度はじめて出て来たどころか、いままで何年となく、上方《かみがた》からあちこち巡業《まわ》っていた人ですよ。わたしたちも、ずいぶん方々で会いましてございます。」
「そうかい。そんなことだろうと思ってた。」
 藤吉が考え込むと、おこよは、問わず語りにつづけて、
「円枝さんとも、よく旅で一座しましたが――。」
「ふうむ。その円枝さんとは、武右衛門がおめえに色眼を使うんで、たびたび鞘当てがあったことだろうの。」
 おこよは、うつむいた。紋之助師匠が、すこしむっ[#「むっ」に傍点]としたような口調で、
「あんまり詰らないことを、お訊きにならないように――。」
「あっしが訊くと思うと、腹が立つ。」藤吉は、にっこりして、
「が、役立《やくだち》が訊かせると思うと、こいつあどうも、腹が立ったところで、しようがねえ。まあ、師匠、そんなようなもんだ。」
「でも――、」おこよは、ぎょっとしたように、顔を上げた。
「あの時、円枝さんはずっと隣りにいて、それに、あの方は、人殺しをするような、そんな――そんな野暮ったい――。」
「親分さん――、」紋之助と話していた円枝も、向うから口を入れた。「あっしを疑うなんて、そりゃあんまりひでえや。あっしは親分――。」
「おう、そこにいたのか。まあさ、おまはんは黙っていな。」
「黙っていろも、ことによりますよ。人気商売だ。人殺しだなんて言われちゃあ――。」
 客席《おもて》に、笑い声が湧いて、すぐに消えた。藤吉は、再び不機嫌な表情《いろ》に返って、周囲の人の顔から顔へと、無意味に見える視線を、しきりに走らせていた。
 出が近づいて、紋之助とおこよは、人形を取り出して、あやつり舞台の上に、並べている。狂言は、芹生《せりふ》の里寺子屋の段、源蔵、戸浪、菅秀才、村の子供たち、その親多勢、玄蕃《げんば》、松王――多くの、いずれも精巧を極めた人形である。
 人形の関節、胴、首など、要所要所に糸がついていた、紋之助が、神に近い至芸《しげい》で、上から糸を操る――正に天下一の竹久紋之助の人形だ。
「竹久紋之助といえる名人あり。人形|活《いけ》るがごとくに遣い、この太夫に、三味線はこよ女、いずれも古今に名誉の人、二人立揃いてつとめられし世に双絶の見物と、称誉せられしはこれなり。人形使い方のことは、その旧《もと》三議一統の書より起り、陰陽自然の事に帰す。深長に至りては、草紙のうえの沙汰に及ばずといえども、その大概を和歌につづりて、覚え易からしむること左の如し。
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踏み出しは、男ひだりに女右、これ陰陽の差別なりけり
当惑は額を撫でて屈み目に、身をそむけるが定まりし法
驚きは、顔しりぞけて肩を出し、拳を宙に置くものぞかし
笑う時、男は肩を添る也、女は袖をあててうつむく。」
[#ここで字下げ終わり]
 その他、これら人形の表現法と基本動作を歌にして示したのが五十三首あって、古来喧ましい竹久家の名人芸だった。

      九

 人形を見ていて藤吉は、そんなことを考えていたわけではない。この時、かれの頭脳《あたま》はほかにあって、忙しく働いていたのである。
 出方の藤吉の眼は、とっさのことではあり、それに、相方《あいかた》が、ぼんやりした影法師なので間違っているかもしれないが、とにかく、その、障子にうつった影は――傴僂だったという。が、言うまでもなく、楽屋にせむしは、ひとりもいないのである。
 藤吉は、うっとりしたような眼で、彦兵衛を招いてささやいた。
「誰と誰てえことは言わねえが、おらあ一応五人の人間を疑ってみたんだ。が、考えてその四人まで身証《みしょう》がはっきりして取り除くとすると――最後《あと》の一人が犯人てえことは、なあ彦、動かねえところだろうじゃあねえか。」
「へえ、その五人目てえのは、誰なんで。」
 葬式彦は、わかったような、わからないような顔をする。
「まあ、急《せ》くなってことよ。」
 その釘抜のような顔を運んで、藤吉は、ぴょこりと廊下へ降りた。そして、にわかに鋭い眼になって、一方から蝋燭の光の来る、細い廊下の上下を見渡した。
 うしろからだけ光線を浴びた藤吉の影が、障子をいっぱいに埋めて、黒く塗り潰したように見える。藤吉は、二、三歩、障子のほうへ進んでみた。
 光から遠ざかると、それだけ影が大きくなる――そして、それだけ影が薄くなる。茫っと、拡がるのだ。
 と、その藤吉をぼんやり見守っていた彦兵衛の耳に、不思議な音が聞こえて来た。
 どうやら、藤吉が、笑いを抑さえているらしいのである。が、すぐ、
「なあ、彦。」と、振り向いた藤吉は、もう笑ってはいなかった。「おらあ十手渡世が嫌になった――。」
 また始まった! こう親分が、悲観的な口調を洩らすところをみると、さては謎が解けた、と思って、彦兵衛が微笑を噛み殺していると、藤吉は続けて、
「おいらは、あたまがどうかしてらあ。今のいままで、こんなことに気がつかねえたあ、われながら、情なくて、あいそが尽きるじゃあねえか。」
 拍手の音が聞こえて、浮世節が終ったらしく、花坊主が降りて来そうな気はいだった。つぎは、呼びものの一つの紋之助の人形である。すると、眼が覚めたように活気づいた釘抜藤吉だった。
 いきなり、その、出の時が迫って来たので、高座のほうへ廊下を進もうとする紋之助老人の前に、立ち塞がった。
 幸七、出方の藤吉、円枝、梅の家連の女たち、楽屋番の銀兵衛ほかの芸人などが、愕いた顔を、そのまわりに持って来る。
 人々に囲まれて、おこよは、紋之助を庇おうとするように、前へ出た。
 しずかに、藤吉が、言っていた。
「師匠。」
 静かに、紋之助が、答えた。
「何でございます。」
「やったね、師匠。」
「ほほう、何のことで――。」
 ちょっと、間があった。
 紋之助は、痩せた肩を聳かして、真正面から、藤吉を見据えた。
「おそれいりますが、おめがね違いです。」
「とは言わせねえぜ。じつああっしが――と、直《ちょく》に出な、直に。」
 口を開いたのは、おこよだった。
「親分さん、何をつまらない冗談をおっしゃるんです。」血が滲みそうに、切れ長の眼尻が、上っていた。
「師匠は、鼠一匹殺さないお人で、それに、こんなお年寄りじゃあありませんか。釘抜藤吉とも言われる方が、すこしは眼をあけて人を見ていただきましょう。」
「親分、師匠はこの部屋で、おこよさんと何か手真似で話をしていて、」出方の藤吉も、気の毒そうに、「廊下にゃいなかったんですぜ。」
「おうさ。その手真似のことよ。」と、藤吉は、おこよへ笑って、「その時師匠は、鴨居《かもい》越しに、障子のそとへ人形を垂らして見ずに糸を使っちゃあいなかったかな。」
「ええ。そうやって、糸の使いをいろいろ苦心しながら、わたしに指の動かし方を話して聞かせていらっしゃいましたが――。」
 一同の眼が、障子の上を振り仰ぐと、なるほど、鴨居のすかしがあけられて、開きが作られてある。
 藤吉は、笑い出していた。
「早く言やあ、右にも左にも、下にも、犯人の逃《ず》らかるところがねえとすりゃあ。上から飛んで逃げたにきまってらあな。」
 紋之助もにこにこして、
「この年寄りが、あんなところを上ったり下りたり、それに、私にあの力持ちの武右衛門さんが殺せるものですか。馬鹿も、休みやすみ――。」
 いきなり、藤吉の手が伸びて、操り舞台のうえの人形の一つを、掴み上げた。それは、ものものしい頭髪と服装《なり》の、松王丸の人形だった。
「師匠にゃあその力がなくても、師匠の指には、いや、名人の操る糸の先には、金剛力があるのだ。部屋から、鴨居のそとへこの松王の人形を垂らして、これに三味の糸の束ねたのを持たして、操り糸を通す名人の指の先で、軽業師武右衛門を絞めたに相違ねえ――やい、野郎ども、退け!」
 藤吉は、人々を押し退けて空地《あき》を作りながら、「見ねえ、この灯りを背負って、おいらの影は、あんなに大きく映らあ。藤吉どんの見たのあ、人間の影じゃあねえんだ。そら、こりゃあどうだ――。」
 武右衛門の倒れた個所の障子に、松王丸の人形の影をうつすと、小さな人形が光線の関係で普通人の大きさに拡がり、頭が大きく、着物の裾がひらいて袴のように見え、それに、背を曲げて、いかさま傴僂のようである。
 紋之助は、うつむいて小さな声だった。
「おこよを弄《おも》ちゃにしようとして、狙っている様子でしたから、いっそのことと思って――。」
 藤吉が、気の毒そうな表情《かお》になったとき、人々のうしろから太い声がして、
「しかし、人形が首に糸を巻いたぐらいで死んだのは――藤吉親分のまえだが、わたしは、こう思いますね。ぼんやり歩いているところへ、くび
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