だのか――。」
「何か、細紐のようなものででも――。」
 彦兵衛が口を挾むと、
「いや、皺の寄り具合えから見ると、こうと、糸を束ねたような物だな。三味線の糸でも――。」
 武右衛門の咽喉を辿っていた手を離して藤吉は、発見者の男衆へ向き直った。
「そこで、お前の名だが、何と言いなさるかね。」
「藤吉。」
「え?」
「藤吉てんで。」
 にやにやする彦兵衛をちらと見て、藤吉は、
「藤吉さんか。」
「へえ。出方の藤吉と申しやす。へえ。」
「うむ。藤吉さん、おらあ八丁堀の者だが――。」
「ええもう、よく存じ上げております。親分と同じ名前で恐れ入りやすが――。」
「そんなこたあどうでもいい。見つけた次第を細かに話してもらおうじゃねえか。」
「いえね、後に出る人の顔が揃ったかどうか見ようと思いましてね、楽屋番の八兵衛に訊くつもりで、おもてからここへはいってまいりますと、御覧のとおり薄っ暗いんでよく見えませんでしたが、こっち側の部屋に、いま、あの操り人形の舞台の置いてある向う側で、太夫の竹久紋之助さんと、おこよさんが何かしきりに話し込んでいました。細長い一本廊下ですから、よく見通しがききます。ほかには誰も、人は見えませんでした。その時、こいつあお笑いになるかもしれねえが、そこの障子に、ひらりと影が映ったのを見たんで――ちょうど普通の大きさの人間の影でございました。踊るように、ちょっと写ってすぐ消えましたが、あっしゃあ誰かと思って近づいてみますと、だれも人はいねえで、この屍骸《しげえ》――武右衛門さんが倒れていたのでございます。酔興《すいきょう》にも程がある。大きなやつが、こんな通り路に寝て、邪魔になるじゃあねえか。おい、武右衛門さん――声を掛けて揺すぶってみたんですが、なんだか様子が変だから、席主の旦那を呼びに木戸へ引っ返したんでございます。」
 藤吉は口を結んで、鼻から息を吹いた。
「そうかい。よくわかった。が、あんまり役にゃあ立ちそうもねえ話だの。」彦兵衛を振りかえって、
「御同役、まあ、ちょっくらこけえらを嗅《け》えでみるとしょうか。」
 そして、ふっと沈黙に落ちて、あたりを見廻した。狭い板廊の両端に、一方は今来たおもての席、他は裏ぐちへのふたつの戸があって、右側は部屋の障子、左側は壁――出るにもはいるにも、その二つの戸のどっちかを通らなければならない。裏のほうで、芸人たちの世話をする男たちの話が、まだ何も知らないらしく、暢気に笑いさざめいて聞こえていた。
 廊下の入口を見返ると、前に言ったように、大きな裸蝋燭がじいじいと燃えつづけて、その黄色い光線が、幅の広い角度を取ってぼんやり部屋の障子を照らし出している。自然に作り出される光の魔術とでも言おうか、細い個所の一方にだけひかりが動いているので、ちょっと不思議に見えるほど、その蝋燭の灯が、壁に、天井に、複雑に交錯しているのだった。これならば、遠くまで、わりにはっきりと影を投げたことであろうと、藤吉は思った。
 彼は、ゆっくり頭をかきながら、
「なあ、藤吉どん。ここんところをもう一度聞こうじゃあねえか。いいか――おまはんが、この客席《おもて》の戸からはいって来る。部屋の障子がすこしあいて、人形太夫の紋之助さんと――女は、何と言ったっけな?」
 いつの間にか、帰って来ていた幸七が、口を入れて、
「おこよさんと言いましてね、紋之助さんの三味線引きでございます。」
「うむ。そのおこよさんと紋之助が話し込んでいて、ここに、今のとおりに武右衛門が死んで倒れていた。他には誰もいなかった――と、こう言いなさるんだね?」
「へえ、さようでございます。その時、この障子に映ってる大きな影を見ましたんで。」
「人がいねえのに、影だけ見えたのか。」
「そうなんで。」
「紋之助さんとおこよは何をしていた。」
「何とも思わねえから、気をつけて見たわけではありませんが、なんでも、操り舞台の仕度をしながら、紋之助さんが何か一生懸命に口真似で話し込んでいました。大方、高座の打ち合わせをしていたのでございましょう。」
「影は、こう、急いでうつったと言いなすったね。」
「へえ。急ぎにも何にも、障子にひらひらと写ったかと思うと、すぐ消えてしまいました。」
「どんな影か、思い出せねえか。」
「どんな影といって――、」出方の藤吉は首すじを撫で撫で、「着物を着て、袴をつけたような、ふくれ返った人間の影でしたが――。」
「ううむ。袴をはいていた、と。」
 藤吉は、不遠慮に欠伸《あくび》をした。

      四

「なに? 袴をはいていた?」幸七が、大きな声で、出方へ、
「おめえ夢でも見たんだろう。誰も、はかまをはいた者なんか、楽屋にいやしねえじゃねえか。」
「戸外から忍び込んだに違えねえ。」
 彦兵衛の前に、出方の藤吉は口を尖らせて、
「しかし、影だけで、人はたしかにいませんでしたよ。」
「そりゃあお前。」藤吉である。
「この武右衛門さんの影じゃあなかったのかな。」
「冗談じゃあねえ。」
 出方の藤吉は、自分の証言を守るために一生懸命になっていた。
「そん時ぁもう、武右衛門さんはこのとおりここに倒れていたんで。」
「じゃあ、その影のことを、もそっと詳しく話してみな。」
「へえ。ようがすとも!――と言ったところで、なにしろとっさの出来事だったんで、どうもぼんやりしたお話で困りやすが、なんですよ親分さん、影はね、傴僂《せむし》のようでしたよ。」
「せむし――?」
「ええ。大きな髪を結って、手に何か持っていやした。」
「何を持っていた。」
「何だか知らねえが、糸のような物を持っているのが見えたんで――。」
 みな黙って、交る代る顔を見合っていた。割れるような拍手が聞こえて来て、つづいてまた唄と三味線がはじまって、しいんとなった。
「無理もねえ。」藤吉は、しずかに、「影じゃあそんなところまでわかるわけはねえからの。ことに、ちょっと間、ちらと眼にうつっただけじゃあ、これは、細けえことは訊くほうが唐変木《とうへんぼく》よなあ。」
「しかし親分、どうして人がいねえで、影だけ見えたんでごわしょう。」
「さあ、そのことよ――。」
「紋之助とおこよは、」彦が部屋を覗いて、「いねえ。どこへ行った――?」
 幸七が答えた。
「この裏に、高座へ出る前に衣裳を直す部屋がありましてね、出の時刻が迫ると、みなそこへはいりますから――呼んで来ましょうか。」
「いや、いい。」藤吉が停めた。
「その化粧部屋へは、廊下を通らずに行かれるんですかい。」
「はい。ここへ下りずに、向うの唐紙をあけるとすぐのところでございます。」
「武右衛門は、高座から来て間もなく、この廊下を通りながら殺られたんだね。」
「へえ。高座を下りる。ここまで来かかる。ほんのちょっとの間のことで。」
「おこよと紋之助さんは、稽古の話に気を取られていて、障子のそとの廊下で武右衛門が倒れるのを知らずにいた――。」
「そりゃあ親分、ちょうど出の代り、梅の家連が高座へ上った時分で、ここは一番お囃《はや》しの鳴物がやかましく聞こえるところだから、ちっとやそっとの騒ぎは耳にはいりませんよ。まして、話に夢中のようだったからね。」
「そりゃあそうだな。こうっと、高座を下りて来る。すぐに殺られる。廊下に人がいねえで、影だけ映っていた――。」
「紋之助さんとおこよさんは、あっしが席主の旦那を呼びに引っ返して、いま親分と一緒にここへ来るあいだに、何も知らねえで化粧部屋へはいったものでごわしょう。」
「そうだろう。訊いてみりゃあわかる。」
「すると、誰もいねえ廊下で、」彦兵衛がむすぶように、「武右衛門は絞め殺されたわけですね。」
「まあ、そんなことにならあ。」
 裏口へ通ずる廊下のむこう端に、驚愕に色を失った銀兵衛おやじの蒼い顔が、怖る恐る覗いた。銀兵衛は、楽屋口を預かる下足番で、枯木のような小柄な老人である。
「おい、銀!」幸七が、呼び込んだ。
「誰も出て行きゃあしめえな。」
「へえ、そうお達しだから、裏を閉めてしまいました。」
「馬鹿野郎、締めちゃあ仕様がねえじゃないか。もう追っつけ伯朝師匠が乗り込むころだが、来たって、はいれやしめえ。」
「なあに、心配しなさんな。」藤吉は、珍しく笑って、「犯人《ほし》せえ挙げりゃあすぐにも開けてやらあな。」
 そして、銀兵衛へ、「こう、爺つぁん、お前、武右衛門の死んだこたあ今聞いたのか。」
 出方の藤吉が、幸七へあわただしく囁いて、
「つぎは浮かれ節の花坊主だが、知らせてようがすね。」
 藤吉が、聞き咎めた。
「芸人衆は、ちっとも見えねえようだが、どこに詰めているんだ。」
「この部屋もそのためにあるんですが、高座のすぐ裏なもんですから、出の近い人が待つだけで、皆ずっと向うの座敷のほうにごろごろしております。さっき申し上げた化粧部屋の、また彼方なんで。」
「そうか。道理で、ちっとも姿を見せねえと思った。武右衛門も、そこへ帰ろうとしてここを通っていたんだな。」
 と藤吉が眼を返すと、銀兵衛がつづけて言った。
「すこしも存じませんでございました。旦那が廻って来て、誰も出しちゃあいけねえというんで、初めて知りましたようなわけで――。」
「おめえは裏口を離れずにいたんだな。」
「へえ。芸人衆のお履物を預かっておりやすんで。」
「この廊下を通って、誰か出て行った者があったろう、なあ爺つぁん。」
 銀兵衛は、きょとんとして、首を振った。
「いいえ裏ぐちは一つですが、どなたも。」

      五

 ふふんと藤吉は、小鼻をふくらませて黙りこんだが、すぐ顔を上げて、銀兵衛に、向うへ行けという合図をした。
「ほんとに誰も、出て行った者はごぜえません。あっしは、裏ぐちにすわりっきりで、円枝さんの下駄の鼻緒が切れたんで立ててあげておりましたが――。」
 楽屋番の銀兵衛がもう一度そう繰り返したが、藤吉は、聞いていそうもない様子だった。じぶんの胸元を覗き込むようにうつむいて、かれはしきりに爪を噛んでいるのだ。
 大石武右衛門は、見るとおりに、それこそ牡牛を三匹合わせたほどの、大兵肥満の男である。それに、いまこの柳江亭の人気を一身にあつめている、前代未聞の力業師なのだ。その大石武右衛門が高座を下りて、一本の蝋燭の光を背中に浴びながら狭いまっすぐな廊下を通って溜りのほうへ帰って行こうとしていると、途中で、何者かが武右衛門の頸部へ綱を捲きつけて、――あっという間に、見事にこの大漢《おおおとこ》を絞殺したのだった。
 信じられない。この力持ちが、そうやすやすと絞め殺されようとは、これは、八丁堀合点長屋の親分釘抜藤吉でなくても、常識のある人間なら、誰しも受け取れないところである。しかも、その時、高座のすぐ裏、細廊下の横隣りの、一段高くなっている出を待つ部屋に、人形つかいの竹久紋之助と三味線引きのおこよが、二人で話し込んでいただけで、見とおしのきく廊下には人っ児ひとりいなかったというのだ。これは、事件のすぐあと、つまり武右衛門が倒れて間もなく、恐らくは、一、二、三、四、五、六――とは数えないうちに、客席から廊下へはいって来た出方の藤吉の証言である。そして、今また、楽屋口で芸人の下足番をしている銀兵衛が、これに裏書きするように、誰も廊下を通って裏へ出て行ったものはないと断言しているのだ。ことに、不思議なのは、廊下へはいって来ると一拍子に、出方の藤吉の見たという、障子に躍って消えた影である――。
 人はいないのに、高座の上り口にある蝋燭の灯りを受けて、その影法師だけが、障子にうつっていたという。
 たしかに、はっきり見たと出方の藤吉は主張するのだが、それは、普通人の大きさの人かげで、厚い着物を着て、袴をはいたように、ふくれ返って見えた。大きな髷に結って、傴僂《せむし》のようだったとも言っている。何か糸のようなものを持っていたと、男衆藤吉はいうのだが、すべては、はっと思った一瞬間の印象で、閃めくように障子をかすめて消えたのだから、もとより、こまかに話すとなると、至極漠然たるもので、夢の想い出の又聞きのようなことにな
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