のほうへ――。」
「おいらに用かね?」相変らず藤吉は、物憂そうな眼だった。「喧嘩かい。」
「いえ、ちょうどいいところに親分さんがいらしって下すって、助かりましてございますよ。なんですか、誰か殺《や》られたんだそうで――。」
 まわりの者の耳に入れまいとするので、聞き取りにくい声だったが、藤吉も、そこで訊き返してはいられなかった。眼で、彦兵衛に合図をすると、黙って起ち上った。待っていた出方の男と幸七を先に立てて、高座の傍から、楽屋へはいって行った。
 右端の一段高いところが、芸人たちが出番を待つ部屋になっていて、取っつきに、裸蝋燭が一本とろとろ燃えていた。それについて、細長い板敷きの廊下がまっすぐ、裏口まで通っている。蝋燭の光が、むこうへ行くほど大きく拡がって、閉めきった部屋の障子がぽうっと白んでいるきりで、足許だけが明るく、宵闇のようなほの暗さが、全体を罩《こ》めていた。
 高座から、唄や三味線につれて踊る梅の家連中の女たちの畳を擦る音や、足踏みが聞こえて来るばかりで、楽屋は、しいんとしていた。誰もいない様子だった。
 が、若い衆が案内して、その狭い廊下を進んで行くと、真ん中辺からすこ
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