し向うへ寄った薄ぐらいところに、何か黒い大きなかたまりのようなものが倒れているのが、だんだんはっきり眼にはいってきた。そこへ行く途中、横隣の部屋の障子がすこし開いていて、出の仕度のできた操《あやつ》り人形の小屋台が置いてあるのが見えた。それは、文机《ふづくえ》ほどの大きさで、上から糸で人形を垂らして、舞台になるものだった。今夜あとから出ることになっている、有名な竹久紋之助の人形というのは、これだなと思って、藤吉は通り過ぎて行った。
「ほかの者はみんなどうしたんだ。」
藤吉はそう言って、屍骸の上に屈《かが》み込んだ。屍骸――もうそれは、屍骸に相違なかったが、あの、いま高座を退《さが》って来たばかりの力持ち、大石武右衛門の屍骸だった。
そうら、見ろ、だから言わねえこっちゃあねえ。図体《ずうてえ》の大《で》けえやつはこんなもんだ――といいたげに、藤吉の皮肉な苦笑が彦兵衛をふり返ったが、この藤吉のまぐれ当りの誇りどころか、彦兵衛は、われを忘れたように、武右衛門の死体におどろきの眼を瞠《みは》っていた。
「どうしたい、誰もいねえじゃあねえか。」
藤吉が繰り返すと、出方の男衆が引き取って、
「へえ。まだ誰にも知らせねえんで――見つけるとすぐ、おもてへ飛んで行って旦那にだけお報せしました。」
旦那というのは、席主の幸七のことだった。
「そうかい。もう手遅れかもしれねえが。」と、藤吉は、依然として面白くもなさそうな顔を幸七へ向けて、「すまねえが、おいらがよしというまで、誰ひとりこの席亭を出ねえようにしてもらいてえ。」
「お易い御用でございます。どうも厄介なことになったものだ。嫌な噂が立っちゃあ、客足が遠のきますから、どうか親分さん、あんまりぱっとならねえように、よろしくお願いいたします。」
「ああ、いいとも。誰か殺した者があるとすりゃあ、こちとらあそいつを逮捕《しよっぴ》けばいいんで、まあ万事内々に早いところやりましょう。」
幸七は足止めの手配に、芸人の出入りする裏口のほうへ急いで行った。
三
藤吉は屍体の上にしゃがんで調べにかかった。武右衛門は、高座の帰りに、そのままの衣装で死んでいて、顔がほとんど紫いろに変って眼が飛び出ていた。頸部《くび》に一条綱のあとがあって、鉛色に皺が寄っていた。
「締め殺されたんだ。」呻くように藤吉が言った。「それとも縊れ死んだのか――。」
「何か、細紐のようなものででも――。」
彦兵衛が口を挾むと、
「いや、皺の寄り具合えから見ると、こうと、糸を束ねたような物だな。三味線の糸でも――。」
武右衛門の咽喉を辿っていた手を離して藤吉は、発見者の男衆へ向き直った。
「そこで、お前の名だが、何と言いなさるかね。」
「藤吉。」
「え?」
「藤吉てんで。」
にやにやする彦兵衛をちらと見て、藤吉は、
「藤吉さんか。」
「へえ。出方の藤吉と申しやす。へえ。」
「うむ。藤吉さん、おらあ八丁堀の者だが――。」
「ええもう、よく存じ上げております。親分と同じ名前で恐れ入りやすが――。」
「そんなこたあどうでもいい。見つけた次第を細かに話してもらおうじゃねえか。」
「いえね、後に出る人の顔が揃ったかどうか見ようと思いましてね、楽屋番の八兵衛に訊くつもりで、おもてからここへはいってまいりますと、御覧のとおり薄っ暗いんでよく見えませんでしたが、こっち側の部屋に、いま、あの操り人形の舞台の置いてある向う側で、太夫の竹久紋之助さんと、おこよさんが何かしきりに話し込んでいました。細長い一本廊下ですから、よく見通しがききます。ほかには誰も、人は見えませんでした。その時、こいつあお笑いになるかもしれねえが、そこの障子に、ひらりと影が映ったのを見たんで――ちょうど普通の大きさの人間の影でございました。踊るように、ちょっと写ってすぐ消えましたが、あっしゃあ誰かと思って近づいてみますと、だれも人はいねえで、この屍骸《しげえ》――武右衛門さんが倒れていたのでございます。酔興《すいきょう》にも程がある。大きなやつが、こんな通り路に寝て、邪魔になるじゃあねえか。おい、武右衛門さん――声を掛けて揺すぶってみたんですが、なんだか様子が変だから、席主の旦那を呼びに木戸へ引っ返したんでございます。」
藤吉は口を結んで、鼻から息を吹いた。
「そうかい。よくわかった。が、あんまり役にゃあ立ちそうもねえ話だの。」彦兵衛を振りかえって、
「御同役、まあ、ちょっくらこけえらを嗅《け》えでみるとしょうか。」
そして、ふっと沈黙に落ちて、あたりを見廻した。狭い板廊の両端に、一方は今来たおもての席、他は裏ぐちへのふたつの戸があって、右側は部屋の障子、左側は壁――出るにもはいるにも、その二つの戸のどっちかを通らなければならない。裏のほうで、芸人たちの
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