武右衛門というのが、現れた。
 葬式彦は、自分が紙屑のような、貧弱な体格の所有主《もちぬし》なので、大男だの力持ちなどというと、人一倍興味を感ずるものとみえる。すぐに長い頸を伸ばして、高座に見入り出した。
 普通人の掌ほどの紋のついた、柿色の肩衣《かたぎぬ》みたいなものを着て、高座いっぱいに見えるほど、山のように控えているのが、武右衛門である。が、この第一印象が去ってから、よく眺めると、角力《すもうとり》のちょっと大きいぐらいのもので、からだそれ自身は、そんなに驚くに当らないのだった。
「武右衛門え、江戸見物に出て来ねえか、ちゅうことで、おう、見物させてくれるなら、行くべえ。なあんて、突ん出て来たのが、お前さま、江戸さ来てみたら、ああに、見物するでねえだ。見物されるだ――。」
 こんな口上を述べて笑わせながら、肩衣《かたぎね》を撥《は》ねる。着物の袖を滑らす。肌脱ぎになった。
 なるほど、見事な筋肉である。

      二

 湯呑みを握り潰す。火箸を糸のように曲げる。にぎり拳で板へ五寸釘を打ちこむ。それを歯で抜く、種も仕掛けもない。力ひとつなのである。肩や腕の肉が、瘤《こぶ》のように盛り上る。這うように動く。見物は讃嘆の声を呑んで、見守っている。われに返ったように、ざわめく。彦兵衛もいつの間にか乗り出して、細い身体を硬張《こわば》らせて凝視《みつ》めていた。まったく、力業師として、ちょっとこの右に出る者はあるまいと思われる大石武右衛門だった。
「あんなのにかぎって、ころっと死《まい》るものだ。」
 突然、藤吉が言った。人が感心すると、貶《けな》したくなるのが藤吉の病いである。不機嫌なときは、右と言えば左と、何によらず皮肉に出るものだ。義理にも微笑《わら》うどころか、誰に対してもお愛想一ついうでなし、もしそんな時何か事件でもあろうものなら、藤吉親分ともあろうものが、鉄瓶が吹きこぼれたほどの、どんな詰らないことでも、初めからすぐ、こりゃあ難物だ、おいらの手に負えねえ、と投げ出したような口振りだった。ところが、それが、そういう口の下から、訳なく解決されて行くのが常だった。こうした藤吉の癖は、彦兵衛は百も知り抜いていて、いっこう気にしないことにしていた。じっさい、藤吉の悲観的態度は、態度だけで、格別何も意味しているものではないのだった。
 だから今も、大石武右衛門はすぐ死ぬだろうなどと、人のことを不吉な、口の悪いことを言っても、彦兵衛は驚きもしなかった。
 かすかに、にこりと顔を歪めただけで、相手にならなかった。武右衛門の演技が進むにつれて、藤吉以外の観客の全部は、注意のすべてを高座へ吸われて行った。霰《あられ》のような拍手が、湧いたり消えたりした。
 彦が、
「あんなけだものを捕るなあ、骨でがしょうな。捕繩なんざあ、何本でも、固めて引っ切っちまいますぜ。」
 藤吉は、聞こえないふうだった。武右衛門がひっ込んで行くと、娘手踊りと銘打った梅の家連中というのが代って、三人の若い女が、高座いっぱいに踊りはじめた。いよいよ詰らなさそうに、藤吉は、場内のあちこちを見まわしていた。
 楽屋に通ずる、高座の横の戸があいて、あわてた顔の出方《でかた》のひとりが、現れた。壁ぎわの板廊下を木戸口のほうへ急いだかと思うと、すぐ席主の幸七を呼んで引っ返して来た。何かささやいていて、幸七の顔いろも変っている。誰かを探すように客席を見ていたが、すぐ藤吉を認めて、幸七は、小腰をかがめて近づいて来た。低声に、
「親分、とんでもねえことが起りましたようで、恐れ入りますが、ちょっと楽屋のほうへ――。」
「おいらに用かね?」相変らず藤吉は、物憂そうな眼だった。「喧嘩かい。」
「いえ、ちょうどいいところに親分さんがいらしって下すって、助かりましてございますよ。なんですか、誰か殺《や》られたんだそうで――。」
 まわりの者の耳に入れまいとするので、聞き取りにくい声だったが、藤吉も、そこで訊き返してはいられなかった。眼で、彦兵衛に合図をすると、黙って起ち上った。待っていた出方の男と幸七を先に立てて、高座の傍から、楽屋へはいって行った。
 右端の一段高いところが、芸人たちが出番を待つ部屋になっていて、取っつきに、裸蝋燭が一本とろとろ燃えていた。それについて、細長い板敷きの廊下がまっすぐ、裏口まで通っている。蝋燭の光が、むこうへ行くほど大きく拡がって、閉めきった部屋の障子がぽうっと白んでいるきりで、足許だけが明るく、宵闇のようなほの暗さが、全体を罩《こ》めていた。
 高座から、唄や三味線につれて踊る梅の家連中の女たちの畳を擦る音や、足踏みが聞こえて来るばかりで、楽屋は、しいんとしていた。誰もいない様子だった。
 が、若い衆が案内して、その狭い廊下を進んで行くと、真ん中辺からすこ
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