釘抜藤吉捕物覚書
影人形
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)落語《はなし》家

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)色物席|柳江亭《りゅうこうてい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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      一

 三十間堀の色物席|柳江亭《りゅうこうてい》の軒に、懸け行燈が油紙に包まれて、雨に煙っていた。
 珍しいものが掛っていて、席桟敷は大入り満員なのだった。人いきれとたばこで、むっとする空気の向うに、高座の、ちょうど落語《はなし》家の坐る、左右に、脚の長い対《つい》の燭台の灯が、薄暗く揺れて、観客のぎっしり詰まった場内を、影の多いものに見せていた。
 扇子を使いたい暑さだったが、誰も身動きするものもなかった。その年は夏が早いのか、五月だというのに、人の集まるところでは、もう、どうかすると、こうしてじっとしていても汗ばむくらいだった。
 軍談、落語、音曲、操《あやつ》り人形、声色《こわいろ》、物真似、浄瑠璃《じょうるり》、八人芸、浮かれ節、影絵など、大もの揃いで、賑やかな席である。ことに、越後の山奥とかから出て来たという、力持ちの大石武右衛門が人気を呼んで、このところ柳江亭は連夜木戸打止めの盛況だった。
 いま高座に出ているのは、若いが達者な、はなし家の浮世亭|円枝《えんし》である。刷毛目の立った微塵縞《みじんじま》の膝に両手を重ねて、
「ええ、手前どものほうでたびたび申し上げますのがお道楽のおうわさで――。」
 はじめている。
 客はみな、今に来る笑いを待ち構えるような顔で、円枝の口元を見詰めながら聞き入っていた。
 うしろのほうの通路に近く、柱を背負ってすわっているのが釘抜藤吉だった。万筋《まんすじ》の唐桟《とうざん》のふところへ両腕を引っ込めて、だらしなくはだけた襟元から出した手で顎を支えて眠ってでもいるのか、それとも、何かほかのことを考えているのかもしれない。固く眼をつぶってしきりに渋い顔を傾けているのである。
 機嫌の悪い時は、苦虫を噛みつぶしたように、何日も口をきかないのが藤吉親分の癖だった。乾児《こぶん》の勘弁勘次や葬式《とむらい》彦兵衛は、その辺のこつ[#「こつ」に傍点]をよく心得ていて、いつも藤吉の口が重くなると触らぬ神に崇りなしと傍へも寄らないように、そっとして置くのだった。そして、そういう場合、藤吉は必ず誰にも知らせずに、大きな事件を手がけているので、しじゅう何かひそかに考えごとをしているふうだった。勘次も彦兵衛も、長年の経験からそれを承知していて、いざ親分の思案がまとまって話があるまでは、何も訊かないことにしていた。
「彦、来い。寄席《よせ》でも覗くべえ。」
 ただこう言って、彦兵衛ひとりを伴に雨の中を、ぶらりと、八丁堀の合点長屋を出て来た釘抜藤吉だった。もちろん木戸御免である。親分の顔にあわてた男衆が、人を分けていい席へ案内しようとするのに、ここで結構と頤をしゃくって、さっさとその柱の根へ胡坐《あぐら》をかいたのだった。
 それきり眼を閉じて、高座へはすこしの注意も払っていない様子だった。どうせ例の気まぐれだろうが、それにしても、何のためにわざわざ傘をさして寄席へでかけて来たのか、さっぱりわからないと彦兵衛は思った。
 気のせいか、今夜は別して、いまにも何か変ったことが起りそうに、藤吉親分が緊張して見えるのだった。ふだん赭《あか》黒い顔が蒼く締まって死人のように、澄んで、沈んでいた。白髪まじりの細い髻《もとどり》を載せた、横へ広い大きな頭部を振って、黄色い、骨だらけの手で、じゃりじゃり音をさせて角張った顔の無精髯を撫で廻している。金壺眼《かなつぼまなこ》、行儀の悪い鼻、釘抜のようにがっしり飛び出た頬骨、無愛想にへの字を作っている口、今に始まったことではないが、どう見てもあんまり人好きのする容貌ではなかった。
「日の本は、岩戸かぐらの昔より、女ならでは夜の明けぬ国。」高座から、円枝の声が流れて来ている。「お色気のみなもとはてえと、御婦人だそうでげして――。」
 藤吉は、眼をひらいた。眇《すがめ》を光らせて、周囲《まわり》の人々を見た。苦笑とも欠伸《あくび》ともつかず、口をあけた。煙草で染まった大きな乱杭歯《らんぐいば》が見える。
 思い切ったように、とむらい彦兵衛が、
「親分、お眠そうじゃあごわせんか。帰りやしょうか。」
「なあに――。」
「円枝は、若えから無理もねえが、小《こ》うるせえ話しぶりでごぜえますね。」
「そうかの。」
 円枝が引っ込むと、一渡り鳴物がざわめいて、評判の五人力、越後上りの大石
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