吉、突然上を向いて狂人のように笑い出した。と、
「親分、ちょっくら!」
 入口の勘次、声を忍ばせた。はっ[#「はっ」に傍点]とした藤吉、あわてて笑いを引っ込めると、扉の蔭に駈け寄って勘次の肩越し、戸外を窺った。
 人眼が怖いか裏口から、横町へ抜ける細道伝いに娘お糸が今しも自家《いえ》を出るところ、町家にしては伊達者めいた艶姿、さすが小町の名を取っただけ、容色《いろかたち》着付の好み、遠眼ながら水際立って見えた。勘次はあんぐり[#「あんぐり」に傍点]口を開けて、
「好い女子だなあ――勘弁ならねえ。」
 と独言《ひとりご》つその背中を、そっ[#「そっ」に傍点]と突いた藤吉、
「勘、尾けろ。」
「へ? 彼娘《あれ》を?」
「そうよ。とち[#「とち」に傍点]るめえぞ。」
「へっへ、言うにや及ぶ。糸桜、てんだ。」
「なにをっ?」
「糸ざくら蕾も雨に濡れにけり、かな。」
「ちゃんちゃら[#「ちゃんちゃら」に傍点]おかしいや。抜かるな。」
「合点承知之助。」
 勘弁勘次、影のようにお糸の跡を踏んだ。
 合点長屋へ帰ろうとして、藤吉がふ[#「ふ」に傍点]と見ると、縁起直しのつもりであろう、弥吉と小僧が尻をからげて、清水で桔梗屋の前構えをせっせ[#「せっせ」に傍点]と洗っていた。
 陽が水溜りに映えて、そのころから晴れになった。

      三

 ちょうど二月、守田座には本所の師匠の書卸し「船打込橋間白浪《ふねにうちこむはしまのしらなみ》」がかかって、これから百余日も打ち通そうという大入続き。小団次の鋳掛松、菊次郎のお咲、梵字《ぼんじ》の真五郎と佐五兵衛の二役は関三十郎が買って出て、刀屋宗次郎は訥升《とつしょう》、三津五郎《やまとや》の芸者お組がことの外の人気だった。
 この舞台《いた》に端役ながらも綺麗首を見せていた上方下りの嵐翫之丞という女形《おやま》、昨夜|閉《は》ねて座《こや》を出たきり今日の出幕になっても楽屋へ姿を見せないので、どうやら穴だけはちょっと埋めて間に合ったものの、納まりかねるのが親方の肚、なんでも木挽町の三、四丁目采女の馬場あたりに泊込《しけこ》みの家があるらしいというところから、下廻りや座方の衆がわいわい[#「わいわい」に傍点]噪《さわ》いで先刻もやたらにそこらを歩いていた――という彦兵衛の話。
 早朝から道楽の紙屑拾いに出て行った藤吉部屋の二の乾児の葬式
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