あれが見えませんね。」
話声を背後《うしろ》に聞いて、藤吉は四、五間離れた河岸、しだれ柳の下へ出た。彦兵衛が追って来て、耳近く囁く。
「天誅とは大上段、やっぱり、武士《りゃんこ》てえお見込みで?」
「まあ、そこいらよなあ。」
藤吉は微笑んだ。が、眼だけは笑いに加わらなかった。笑わないどころか、眈々《たんたん》としてあたりを睨《ね》め廻していた。
柳の根方に草が折れ敷いて、地に丸く跡を見せている――いかにも人が腰を下ろしていたような、と、その手前の土には、待つ間の徒然《すさび》に手だけが動いて、知らず識らず同じ個処を何度も掻いたような三角の図形《えがた》。そこからは丘の裾を越しておもての通りも窺われる。雨に首垂れた鬼百合の花が、さもここだけを所得顔に一面に咲き乱れていた。
「彦、この百合を一つ残らず引っ捩《ちぎ》って河へ叩っ込め。」
藤吉、変なことを言う。彦はぽかん[#「ぽかん」に傍点]として藤吉の顔を見た。
「えこう、早くしろ!」厳命だ。不審《いぶかし》みながらも彦兵衛、嫌応はない、百合を折っては河へ捨てた。
黒い水に白い大輪が浮んで、つぎつぎに流れて行った。
百合の花がすっかりなくなったころ、勘次と佐平次がやって来た。甚右衛門は柳の下の尻跡を嗅いでは漂々と遠吼えしている。人間四人、それを囲んで期せずしてだんまり。
「親分。」佐平次が沈黙《しじま》を破った。「この犬あ今夜癇が高えようです。一つ、犯人《ほし》の跡を尾けさせてみようじゃございませんか。もっとも畜類のこと、当るも当らねえも感次第でやすがね。」
「うむ。面白かんべ。そこの根っこあ誰かが据わって草加屋を待伏せしたとこ、とまあ、俺あ踏みてえんだが――嗅がせろ。」
佐平次が甚右衛門の首を掴んで、その地点へ鼻を擦りつけると、犬は万事承知して歩き出した。四人それに続いて山を出た。往来へ来ると、大声に藤吉が言った。
「彦、わりゃあ八百駒を白眼《にら》んで来い。勘、手前はな、番所|叩《たて》えて人数を貰え、仏の始末だ。俺か、おいらあ甚右様々の供奴。宜えか、二人とも御苦労だが頼んだぜ。うん、落合う所か――こうっと、待てよ。」
「手前のお邸、へへへへ、たいしたお屋敷で。九尺二間、ついそこです。明石町橋詰の宗十郎店、へえ。」
「そうか。そいつあ済まねえのう。なにも御難と諦めてくんな。じゃ、借りるぜ――おうっ、勘、彦、用が済んだら佐平次どん方へ――待ってるぜ。彦、如才《じょさい》あるめえが八百駒あやんわり[#「やんわり」に傍点]な。」
言うあいだにも遠ざかる親分乾児、裸体の二人は東西へ、藤吉佐平次は犬を追って、暴風雨のなかを三手に別れた。
四
御軍艦操練所に寄った肴店《さかなだな》のと[#「と」に傍点]ある露地、一軒の前まで来ると、甚右衛門は動かない。佐平次は顔色を変えた。藤吉が訊く。
「だれの住居ですい?」
「お心易く願っている御浪人で、へえ、なんでも以前はお旗下の御家来だとか――こわあい方で、いや、こりゃあ大変なことになりましたわい。」
「名は?」
「御家新《ごけしん》。逸見《へんみ》流の弓の名人だそうで、へえ。」
「なに、弓の名人? 御家新? ふうむ、やるな。」
藤吉は壺を伏せる手つきをした。うなずく佐平次を、甚右衛門とともに先へ帰らせておいて、藤吉、戸を叩いて案内を求めた。二間きりらしい荒れ果てた家、すぐに御家人くずれの博奕《ばくち》こき、あぶれ者の御家新が起きて来た。やたらに天誅ぐらいやりかねないような、いかさま未だ侍の角が落ち切れないところが見える。藤吉は気を配った。
「誰だ、なんだ今ごろ。」
気さくに開けたが、御用提灯を見ると、固くなった。藤吉はさっそく下手に出て、まず宵から今までの動きを訊いてみたが、御家新、口唇を白くして語らない。
いよいよ怪しい――弓一筋の家からぐれ[#「ぐれ」に傍点]出た小悪人、そう言えば矢文の筆つきも武張っていた。藤吉、抜いた時の要心をしながら、なおも一つ問を重ねて行った。すると御家新、苦しくなってか、こう申し立てた。
「今夜は友達の家へ行っていま帰ったところ、その友達は鋳かけ屋で、明石《あかし》町宗十郎店に住む佐平次という者だが、何の用でそんなことを訊くのだ。」
見え透いた虚言《うそ》、藤吉はにっこり[#「にっこり」に傍点]した。そしてなれなれしく、一本ずい[#「ずい」に傍点]と突っ込んだ。
「弓がおありかね?」
御家新はまた黙り込んだ。一筋繩ではいかない、こう観念した藤吉、驚いている御家新を残して、急ぎ帰路についた。
でたらめを吐いた以上、明朝と言わず今すぐに佐平次方へ口を合してくれと頼みに出かけるであろう、と思った藤吉、途中《みちみち》うしろを振り返って行くと、明石町の手前、さむさ橋の際へ来た時、はたして後に、御家新の姿が見えた。と、闇黒の奥で弦音《つるおと》、とたんに矢風、藤吉とっさに泥に寝た。間一髪、矢は傍の小石を散らしてかちり[#「かちり」に傍点]と鳴る。呼吸を潜めた藤吉の前へ、首尾を案じて男の影が、弓を片手に現れた。充分仕留めたつもりらしい、頭上立って、今や止めを刺そうとする。白刃一閃、そこを藤吉、足を上げて蹴る、起きる、暗いから所在《ありか》もよくは解らないが、猛然と跳りかかったら、運よく確《し》かと抱きついた。と思ったも束の間、敵もさる者、声も立てず顔の形にも触らせずにするり[#「するり」に傍点]と振り切る。倒れながらも藤吉袖口を握った。走り出す男。小兵の藤吉、橇《そり》のように引きずられた。が、指のかかりが抜けて、闇黒から出た男は一目算に闇黒へ消えた。泥にまみれた藤吉、伊兵衛を殺したのと同じ拵えの太短い矢を拾っては、今さらのように身顫いを禁じ得なかった。
「彼男《あれ》だ、俺にゃあもうわかってる!」
会心の笑みが、泥だらけの藤吉の顔を綻ばせた。
五
「や、親分、どうしましたえ。」
佐平次が飛んで出た。
「転んだ。白痴《こけ》の一人相撲。面目ねえ。」
鉄瓶の湯がちんちん[#「ちんちん」に傍点]沸いて、佐平次の心尽し、座蒲団が三つ並んでいた。洗足《すすぎ》をとった藤吉、気易に上り込んだ。宗十郎店は佐平次の住居。勘次彦兵衛はまだ来ていない。
「どうでした、御家新おそれいりましたか。」
「口を開かねえ。が、俺らにゃもうわかってる。」
「さいでございましょうとも。」
言っているところへ勘次が帰って、屍骸は番屋へ引き取らせたと復命した。間もなく彦も顔を見せたが、これはえらく意気込んでいた。
「八百駒あ他行だったが――。」
「他行?」藤吉が聞き咎めた。「この荒れの夜中にか。」
「あい。それで土間を覗くてえと、親分、驚いたね、草加屋の杖がころがってた。」
「ふうむ。」
「どうもこりゃあ八百駒の仕事に違えねえ。同勢四人、揃えて乗り込んで待ちやしょうか。」
「まあ、待て。」
「だが、逃《ずら》かる。」
「なあに、ずら[#「ずら」に傍点]かりゃしねえ。」
「はははは。」佐平次が笑い出した。「彦さん、犯人は先刻こっちへ割れてますよ。ねえ親分。」
「え? ほんとでげすか。」
「勘弁ならねえ。」
勘と彦とが同時に藤吉を見詰める。
「嘘をつくけえ!」藤吉は嘯《うそぶ》いた。
「逸見流弓術の名人、御家新。甚右衛門が嗅ぎ当てました。」と佐平次。
「そのことよ。」と藤吉しばらく瞑目していたが、「佐平次どん、筆を三本、紙が三枚、何でもいい、あったら出して筆にたっぷり[#「たっぷり」に傍点]墨を含ませて、銘々に筆と紙を渡してやんな。お前さんも筆を取って。」
三人、膝に紙を伸べて、筆を持って、不思議そうに控えた。藤吉は手枕、横になっている。
「さ、みんな俺らの言うことを書くんだぞ。」
「勘弁ならねえが、」と勘弁勘次、「こちとら無筆だ。」
「勘、黙ってろ。」
「へえ。」筆の穂を舐めて三人は待っている。ところが藤吉、ぐう[#「ぐう」に傍点]ともすう[#「すう」に傍点]とも言わない。いや、そのうちぐうすう[#「ぐうすう」に傍点]言い出した。高鼾《たかいびき》である。
三人が三人とも、やがて持てあます退屈。
とうとう彦が、我慢し切れずに声を掛けた。
「親分え、もし、親分え。」
勘次も和した。
「御家新とやらを押せえに出張《でば》ろうじゃごわせんか。」
大欠伸《おおあくび》と一緒に身を起した藤吉、仮寝《うたたね》していたにしては、眼の光が強過ぎた。胡坐《あぐら》を揺るがせながら、縷々《るる》として始める。
「矢文の天誅[#「天誅」に傍点]は欺《まやか》しだ。なあ、真正の犯人がなんでわざわざ己が字を残すもんけえ。土台、あの矢が弓で射たもんなら、ああ着物を破いちゃあ身へ届くわけがねえ。それに、弓ならあんなに汚なく血が出やしねえや。顔《そっぽ》だって、もちっと綺麗に、歪《ゆが》んじゃいねえはず。ありゃあお前、弓矢じゃねえぜ、うんにゃ、矢は矢だが、背後から抱きすくめて手でこじりこせえたもんだ。その証拠を言おうか。仰向《おうのけ》の胸に直に立った矢が、見事二つに折れてたじゃあねえか。手で無理をしねえかぎり、矢が折れるってえ道あねえ。」
「しかし親分、」と彦兵衛、「その御家新は逸見流の――。」
「逸見流の矢は、もそっと長え。」藤吉は眼を閉《つぶ》ったまま、「関の六蔵|一安《かずやす》三十三間堂射抜の矢、あれだ。いやに太短えもんなあ。」
「へえい! するてえと?」
「往来で殺《や》ってあそこへ引いてった。すりゃこそ、提灯も履物も八百駒の物ばかりで、草加屋のは一つもねえ。」
「その理は?」
「決ってらあな。伊兵衛は八百駒へ行ってて先で嵐《あれ》になって借りて来たんだ。杖は荷になると見て預けて出た――どうでえ。」藤吉は続ける。「人間にゃあ変《ひょん》な気性があっての、三つ四つから物を画く。形にならねえ物をかく。三つ児の魂百までだ、それが抜けねえ。ええか、もっとも十人十色、形あ違う。が、なくて七癖あって四十八癖、ぼんやりしてる時あお互えによく為体の知れねえ図面や模様を塗たくるものよ。のう、先刻からお前たちに筆を預けて、俺らあ寝た風《ふり》をしてたが、勘、われあ何を書《け》えた?」
「蚯蚓《みみず》の行列、はっはっは、だらしがねえや。」
「彦は?」
「屑っ籠の目でがしょう、自身にもはっきりしやせん。」
「佐平次どん、お前さんは?」
佐平次、丸めて捨てようとした。逸早く藤吉が奪った。見ると、墨黒ぐろと三角の形!
「木槌山の柳の下に、矢尻で掘ったこの印しがあったけのう。」
「それがどうとかしましたかえ。」
「や!」藤吉は佐平次の裾を指さした。赤い染点《しみ》が付いている。「そりゃあ何だ、そりゃあ?」
「これか、」がらり巽上《たつみあが》りに変った佐平次、「血じゃあねえから心配するな。」
「血じゃあねえと? おう、血なら水に落ちべえさ。」
「見てろ。宜しか。」
水差の水を染点へ垂らして、佐平次、手で揉んだ。落ちない。
「見やあがれ、血じゃあねえや。」
「ほう、何だ?」
「百合だ、百合の蕊《しべ》だ。」
「なるほど、百合の蕊なら洗ってもおちめえ。が、その百合あどこでつけた?」
「爺つぁん、耄碌《もうろく》しっこなしにしようぜ。木槌山の柳の下に、五万何ぼも咲《せ》えてたじゃねえか。嫌だぜ、おい。」
「うん。そうか。だがの、百合あお前が来る前に、彦がそっくり河へ捨てたはずだ。そいつをお前、どうして知ってる?」
「――――」
眼配せ。勘が背へ廻る。彦兵衛は上框《あがりがまち》に立った。
「やい、何とか音《ね》え出せ。」
「――――」
佐平次の手が鉄瓶を探る。が、彦がとっくに下ろしてある。
「佐平次っ!」藤吉の拳、佐平次の鬢《びん》に飛んだ。「眼が覚めたか、どうだっ!」
「御用!」
一声、勘次はどっか[#「どっか」に傍点]と佐平次を組み敷いていた。
押入れを捜すと、さっき藤吉を襲った弓矢が出て来た。それが佐平次の口を開いた。
浅草奥山の揚弓場女に迷った末、佐平次が伊兵衛の高息の金に苦しんでいると、女に情夫の
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