ろ。」
「え? お出ましでごぜえますか。」
「うん。」
「どちらへ。」
「はて、そいつあ甚右衛門に訊いてくんねえ。」
「だが親分、高が犬ころが逆上《あが》ってるだけ、それにこの大暴風雨、悪いこたあ申しませんぜ、お止めなすっちゃいかがですい。」
「こう、乙に理解《りけえ》をつけやがったのう。俺らあな、虫の報せがあるんだ。あらしがなんでえ、何で、なあん[#「なあん」に傍点]でえ! へん、紙子細工や張子《はりこ》の虎じゃあるめえし、べら棒め、濡れて落ちるよな箔じゃあねえや。柄にもねえ分別するねえ。」
 親分藤吉一流の手だ、こう真正面《まとも》にどや[#「どや」に傍点]しつけられては、江戸っ子の手前勘次と彦兵衛、即座に仏頂面《ぶっちょうづら》を忘れて、勇みに勇んで駈け出さざるを得ない。彦の合羽の裾を銜《くわ》えて、甚右衛門が先に立った。
 しかし、いざ出て来てみると藤吉も内心ちょっと後悔した。思った以上の嵐である。それに、何を言うにも相手は犬のこと、当てが外れても文句の持って行きどころがない。と言って、今さら帰るわけにはなおさら往かない。釘抜藤吉、無理にも最初《はな》の見得《けんとく》を守り立てて、乾児を励ましてここまで来た木槌山。牛に引かれて善光寺詣り、ではない、犬にひかれて目明し奉公、果してそこに、しかも釘抜自身の繩張り内に、恐ろしい凶事が潜んでいたのである。
 小谷間《こたにあい》の、いささか風雨を避けた地点《ところ》に、白髪頭を土に滅《め》り込まして、草加屋伊兵衛の血だらけの屍骸《むくろ》が、仰向けに倒れていた。甚右衛門の飼主鋳かけ屋佐平次が弱気らしい顔を蒼くして怖さにわなわな[#「わなわな」に傍点]顫えながら、それでも固く、甚右衛門が八丁堀を起して来ることを信じて、張番していてくれた。藤吉は乾児を従えて、雨に重い草を分けた。
「甚右が発見《めっ》けて、甚右が親分を呼びに行ったのでございます。賞めてやって下せえまし。なあ、甚公――。」
 傍の甚右衛門を顧みて、得意そうに佐平次が言った。藤吉は黙ったまま、彦兵衛の手から提灯を引ったくり、いつものとおり手紙でも読むように、眼を細くして足許の死人を覗き込んだ。
 無言。ひとしきり雷鳴。灌木の繁みや草の葉から、大粒な水玉が音を立てて霰と散る。藤吉は寝呆けたような顔を上げた。
「佐平次どん――てったけのう、お前さんは。」
「へえ佐平次でございます、鋳掛屋の佐平次でございますへえ。」
「犬が見つけたてなあどういうわけですい。」
「へえ。あっしがこの犬を伴れてこの前面《まえ》の往来を通りかかりますてえと――。」
 藤吉はつ[#「つ」に傍点]と手を振って佐平次を黙らせた。
「俺たちが来るまでお前このわたりに何一つ手をつけやしめえの。」
 佐平次は頷首いた。屍体の上へ馬乗りに股がって、藤吉は灯を近づける。
 草加屋伊兵衛は胸に一本の折矢を立てて、板のように硬張《こわば》って死んでいた。傷は一つ、左襟下を貫いているその太短い矢だけだが、夥しい血が雨合羽の上半身と辺りの土や草を染めて、深く心の臓へ徹っていることを語っていた。香いを利くように藤吉が顔を寄せて、矢と傷痕を白眼《にら》んでいると、佐平次は話を続ける。勘次と彦兵衛、右大臣左大臣のように左右に分れて、静かに仏《ほとけ》を見守っていた。
「金春《こんぱる》屋敷の知人《しりええ》んとこで話が持てましてね、あっしが甚右を連れて此町《ここ》を通ったのは四つ過ぎてましたよ。このお山の向っ側まで来るてえと、甚右のやつ、きゃん[#「きゃん」に傍点]と鳴いてここへ飛び込んだきり、呼んでも賺《すか》しても出て来ねえんで――いつにねえこったが変だなあ、と不審ぶって来て見るてえと、この状《ざま》じゃごわせんか。いや、親分さんの前だがあっしも仰天《びっくり》敗亡《はいぼう》しやしてね、係合いにされちゃあ始まらねえから――。」
「お前さん、店は?」
「へえ、この先、明石町の宗十郎店でございます、へえ。――それでその、係合いになっちゃあつまらねえから、不実なようだが見て見ねえふりをすべえ、とあっしゃあこう考えたんでやすが、甚公の野郎が承服しません。どうあってもこの場を動かねえんで――で、あっしも観念しやしてね、甚公は八丁堀によくお邪魔に上って可愛がられているようでございますかち、親分さんをお迎え申して来い、とまあ言い含めて出してやった次第《わけ》なんで――お騒がせして、相済みません、へえ。」
「なんの。よく報《しら》せて下すった。」
「親分。」
 佐平次がきっ[#「きっ」に傍点]となった。藤吉は顔を振り向ける。
「思いきって申し上げますが、」と佐平次は少し逡巡《ためら》って、「あっしが駈けつけた時あまだ息の根が通ってましてね、灯を差し向けると一言はっきり口走りましたよ。」
「おお、な、何と、何と言ったえ。」
「へえ。俺にゃあわかってる、と口早にね、それだけは聞こえましたが――。」
「なに? 俺にゃあわかってる?」
「へえ。俺にゃあわかってる[#「俺にゃあわかってる」に傍点]――して親分、ああして手で何か指さしながらがっくり[#「がっくり」に傍点]なりましたよ。あああ、嫌な物を見ちまいました。」
 なるほど、死人が草の上に延ばした右手人差指の先、そこに畳み提灯がぶら[#「ぶら」に傍点]のまんま抛り出されて、筆太に八百駒《やおこま》と読める。

      三

「弓を射たたあ親分、大時代な殺しでごぜえすの。」
 勘次が口を出した。が、藤吉は答えもしないで、
「矢が、これ、折れてやがる。中ほどからぽっきり[#「ぽっきり」に傍点]――はてな。」と独語《ひとりご》ちながら、その矢をぐい[#「ぐい」に傍点]と引抜いた。わりに短い。と見ていると、矢羽の下に、勧進撚《かんじんより》が結んである。濡れて破けそうなのを丹念に解いて、拡げた。案の定、矢文である。天誅[#「天誅」に傍点]と二字、達者な手だ。
「弓矢と言い、この文句といい、素町人じゃあねえな。」
 親分の肩越しに葬式彦が首を捻った。
「あいさ、いっそ難物だあね。」
 同ずる勘次。藤吉、しきりに髷をがくつかせていた。
 鬼草《おにそう》というのが、今宵人手にかかって非業《ひごう》の死を遂げた草加屋伊兵衛の綽名だった。鬼というくらいだから、その稼業《しょうばい》も人柄もおよそは推量がつこうというもの。草加屋は実に非道を極めた、貧乏人泣かせの高息の金貸しであった。二両三両、五両十両といたるところへ親切ごかしに貸しつけておいては、割高の利息を貪《むさぼ》る。これが草加屋の遣口《やりくち》だった。貸す時の地蔵顔に取り立てる時の閻魔面、一朱一分でも草加屋に廻してもらったが最後、働き人なら爪を擦り切らしても追いつかないし、商人《あきんど》は夜逃げかぶらんこ[#「ぶらんこ」に傍点]がとどの結着《つまり》。まったく、鬼草に痛めつけられている借人は、この界隈だけでも生易しい数ではない、と言う人の噂。
「血も涙もねえ獣でさあ。あっしゃあいつか人助けのためにあの野郎を叩っ殺してやるんだ。いい功徳になるぜ。」
「あん畜生、生かしちゃおけねえ。」
「鬼の眼にも泪と申す。草加屋伊兵衛は鬼でもないわ。豚じゃ、豚じゃ、山吹色の豚じゃ。己れ、そのうち、伝家一刀の錆にしてくれる。」
「月のねえ夜もありやす。一つ器用にさばきやしょう。」
 痩浪人、遊人、そんじょそこらの長屋の衆、口ぐちにささやき合うのが、早くから釘抜連の耳にもはいっていた。だから、もっともらしく顰《しか》めた伊兵衛の死顔を見た時、藤吉は、ははあ、とうとう誰かがやったな、という頭がぴいん[#「ぴいん」に傍点]と来て、格別おどろかなかったわけである。しかし、考えに止まっているうちはともかく、眼と鼻の間でこう鮮かに手を下されてみると、仮りに仏の生前がどうあろうと、また事の起りは一種の公憤にしろ、藤吉の務めはお上向きに対しても自から別な活動《はたらき》を示さなければならなくなる。ところで、草加屋殺しの探索は、やさしいようでむずかしい。藤吉は考える。
 何事もそうだが、すべて人殺しには因由《いわれ》に意《こころ》が見えるものだ。殺さなければならないほどの強いつよい悪因縁、これを籠《こめ》る犯人《ほし》のこころもち、これにぶつかれば謎はもう半ば以上解けたも同じことである。この人殺しのこころを藤吉は常から五つに分けていた。国事《おおやけ》に関する暗撃果合いや、新刀《あらもの》試し辻斬の類を除《ぬ》かした土民人情の縺れから来る兇行の因に五つある。物盗《ものとり》、恐怖、貪慾、嫉妬《やきもち》、それから意趣返しと。伊兵衛の場合はあきらかに物盗ではない。現にぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]詰った鬱金《うこん》木綿の財布の紐を首から下げて死んでいるのでも目的《あて》が鳥目《ちょうもく》でないことは知れる。恐怖というのは途端場《どたんば》での命のやり取りをさすものだが、伊兵衛を誰が襲ったとも考えられない。嫉妬と言ったところで、これには髱《たぼ》がなければ話にもならない。しからば貪慾か、というに、これはその人を亡くすることによって利を獲るとの義だが、草加屋伊兵衛は独身を通した一酷な老爺、後継《あととり》はもとより親戚《みより》縁辺《よるべ》もない。いや、たった一人、あるにはある。甥が槍屋町に住んで八百駒という青物|担売《かつぎうり》を営んでいるが、これとても出入りはおろか節季紋日の挨拶さえなかったらしい。とはいえ、そこにある八百駒と字の入った小田原提灯が、今となっては藤吉いささか気にならないでもないが――まず、なんと言っても踏外しのないところが、第五の意趣返しであろう。そうだ、意趣返しに相違ない、と一旦は景気づいてもみるが、つぎの刹那、藤吉はまた手の着け場所のない無明《むみょう》の闇黒《やみ》に堕ちるのだった。
 今日は六月末日、年の半期である。伊兵衛め、例によって元利耳を揃えろの、せめて利息だけは入れろの、さもなければ証文の書換えじゃのと、さんざ一日いじめ抜いて歩き廻ったことだろうが、してみるとこれは、そのいじめられた一人の仕業と決めてかかったところで、ここで困ることには、独り者の伊兵衛、普段から商売向きには人の手を借りたこともなければ藉したやつもないから、どこどこに貸金《かし》があって証文がどうなっているのか、今日はどっちを廻ったのか、肝心の本人がこうなっているとそこいらのことが一切わからない。ことに、異志を挾んでいた者が浜の真砂のそれならなくに目当ばかりたくさんあって星のなかからほし[#「ほし」に傍点]を指せというのと同一轍、洒落にはなろうが、さて骨だ。夜更けて帰宅《かえ》る金貸し老爺、何しに町筋を外れて木槌山のかげへ立寄ったろう? ほかで射殺してここへ運んだものか。それにしては提灯などが落ちているのが呑み込めない。それよりも、呑み込めないと言えば、そもそも何のために古めかしい飛道具なぞを持ち出したものか。それに、矢は二つに折れている[#「矢は二つに折れている」に傍点]。のみならず矢文の文字の天誅、これをそのまま受け入れていいか――。
 抜いた矢を右手《めて》に、傷口を検めていた釘抜藤吉、つぎに、七転八倒を思わせる伊兵衛の死相を凝視《みつ》めながら、何思ったか急にからから[#「からから」に傍点]笑い出した。甚右衛門がぎょ[#「ぎょ」に傍点]っとして唸ったほど、折が折だけ、それは不気味な笑いであった。
「親分、臭えぜ。これ。」
 勘次と二人で先刻から草を分けていた彦兵衛が、こう言って高下駄を拾って来た。安物のせん[#「せん」に傍点]の木の台、小倉の緒、麗々しく八百駒と焼印してある。藤吉はじっ[#「じっ」に傍点]と見ていたが、やがて誰にともなく、
「紛失物《なくなりもん》はねえかな――こう、なくなり物はよう――。」
 勘次が答える。
「爺あよく杖をついて歩いてるのを見かけやしたが――。」
「そうそう、」佐平次が応じた。「あの鬼草の金棒は曲木《まがりぎ》の杖、評判でさあ。知らねえ者あございません。そう言えば
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