っぱら評判の甚右衛門だったが、それが、何としたことか土間に立って水気を振い落すと、彦兵衛の顔を見上げて世にも悲しげな声を絞って吠え出したのだった。
 驚いて出て来た勘次が、彦兵衛と力を協せて追い出そうとしても、犬は故あるらしくますます鳴くばかり、果ては、口を利けないのがもどかしいのか、濡れ毛を人へ摺りつけておいては二、三歩戸外へ躍り出て、通りの方を白眼《にら》んで吠えに吠える、また家内へ引き返して来て促すように長なきする。雨の音、風の響きに混って、消えそうにして尾を引く甚右衛門の遠吼えは、この場合、下手な人間の舌以上に雄弁であった。それは、始めは何がなしぼんやりした恐怖、つぎに戦慄に似た不吉な予感、それから、こりゃあこうしちゃあいられねえといったような感じを冷水のように釘抜部屋の三人の背骨へ流し込むことができたからである。鮎肥る梅雨明けの陽気とはいえ、車軸を流さんばかりの豪雨と、今にも屋根を剥がしそうな大風の夜に、いとも哀れに泣き止まぬ犬の声は、犬が賢い名を取っているだけに、いっそう凄惨な余韻《よいん》を罩《こ》めて、いかさま人の死にそうな晩だ、この濃い黒|闇々《あんあん》の底にどれだけ多くのたましいがさ迷っていることか――あらぬことまで思わせるのだった。
 が、犬は要するに犬である。その吠えるのはつまり勝手に吠えるのである。勘次が甚右衛門を抱いて抛《ほう》り出した後は三人安らかに夢路につこうとした。
「甚右衛門犬、戸惑いしやあがって、いい世話あ焼かせやがったの。」
 釘抜は蒲団から手を延ばして煙草を吸いつけながら、こんなことを言って笑っていた。が、その言葉の終らないうちに、何者か割れそうに雨戸の根にぶつかる音がした。つづいて咬みつくような甚右衛門の声がした。それが家の周囲を駈け廻って火のつくように吼え立てたのだから、義理にも真似にも小鬢が枕についてはいない。かっ[#「かっ」に傍点]とした勘次が薪雑棒《まきざっぽう》を引っ掴んで飛び出そうとすると、藤吉はそれを押し止めて、起きてゆっくり帯を締め直した。そして彦兵衛に戸を開けさせたが、猛り狂った甚右衛門は、血を吐くような鳴声を揚げて、からくり仕掛みたいに格子の敷居を境いに、跳び込んだり躍り出たり、眼に哀訴嘆願の色を見せて戸外へ人を誘おうとする。もはや一刻も猶予はならないと、藤吉は尻をからげた。
「おっ、野郎ども、仕度しろ。」
「え? お出ましでごぜえますか。」
「うん。」
「どちらへ。」
「はて、そいつあ甚右衛門に訊いてくんねえ。」
「だが親分、高が犬ころが逆上《あが》ってるだけ、それにこの大暴風雨、悪いこたあ申しませんぜ、お止めなすっちゃいかがですい。」
「こう、乙に理解《りけえ》をつけやがったのう。俺らあな、虫の報せがあるんだ。あらしがなんでえ、何で、なあん[#「なあん」に傍点]でえ! へん、紙子細工や張子《はりこ》の虎じゃあるめえし、べら棒め、濡れて落ちるよな箔じゃあねえや。柄にもねえ分別するねえ。」
 親分藤吉一流の手だ、こう真正面《まとも》にどや[#「どや」に傍点]しつけられては、江戸っ子の手前勘次と彦兵衛、即座に仏頂面《ぶっちょうづら》を忘れて、勇みに勇んで駈け出さざるを得ない。彦の合羽の裾を銜《くわ》えて、甚右衛門が先に立った。
 しかし、いざ出て来てみると藤吉も内心ちょっと後悔した。思った以上の嵐である。それに、何を言うにも相手は犬のこと、当てが外れても文句の持って行きどころがない。と言って、今さら帰るわけにはなおさら往かない。釘抜藤吉、無理にも最初《はな》の見得《けんとく》を守り立てて、乾児を励ましてここまで来た木槌山。牛に引かれて善光寺詣り、ではない、犬にひかれて目明し奉公、果してそこに、しかも釘抜自身の繩張り内に、恐ろしい凶事が潜んでいたのである。
 小谷間《こたにあい》の、いささか風雨を避けた地点《ところ》に、白髪頭を土に滅《め》り込まして、草加屋伊兵衛の血だらけの屍骸《むくろ》が、仰向けに倒れていた。甚右衛門の飼主鋳かけ屋佐平次が弱気らしい顔を蒼くして怖さにわなわな[#「わなわな」に傍点]顫えながら、それでも固く、甚右衛門が八丁堀を起して来ることを信じて、張番していてくれた。藤吉は乾児を従えて、雨に重い草を分けた。
「甚右が発見《めっ》けて、甚右が親分を呼びに行ったのでございます。賞めてやって下せえまし。なあ、甚公――。」
 傍の甚右衛門を顧みて、得意そうに佐平次が言った。藤吉は黙ったまま、彦兵衛の手から提灯を引ったくり、いつものとおり手紙でも読むように、眼を細くして足許の死人を覗き込んだ。
 無言。ひとしきり雷鳴。灌木の繁みや草の葉から、大粒な水玉が音を立てて霰と散る。藤吉は寝呆けたような顔を上げた。
「佐平次どん――てったけのう、お前さんは。」
「へ
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