釘抜藤吉捕物覚書
無明の夜
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)篠《しの》突く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小笠原|長門守《ながとのかみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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      一

「あっ! こ、こいつぁ勘弁ならねえ。」
 い[#「い」に傍点]の一番に傘を奪られた勘弁勘次、続いて何か叫んだが、咆える風、篠《しの》突く雨、雲低く轟き渡る雷に消されて、二、三間先を往く藤吉にさえ聞き取れない。が、
「傘あ荷厄介だ。」
 こう藤吉が思った瞬間、一陣の渦巻風が下から煽《あお》って、七分にすぼめて後生大事にしがみついていた藤吉の大奴を、物の見事に漏斗形《じょうごがた》に逆さに吹き上げた。面倒だから手を離した。傘は苧殻《おがら》のように背後へ飛んだ。あとから勘次が来ると閃くように気がついた藤吉、足踏み締めて振り返りざま精一杯に喚いた。
「勘! 傘が行くぞっ。危ねえっ!」
「あい来た!」
 ひらり引っ外した勘次の頭を掠めて、白魚屋敷の練塀に真一文字、微塵《みじん》に砕けた傘は、それなりいもりのように貼りついて落ちもしなければ、動きもしない。蒼白い稲妻に照らし出されて刹那に消える家並みの姿、普段見慣れている町だけに、それはげに高熱の幻に浮ぶ水底地獄の絵巻そのまま。
 桐油合羽でしっくり[#「しっくり」に傍点]提灯を包んだ葬式彦兵衛、滝なす地流れを蹴立てつつ、甚右衛門の導くがままに真福寺橋を渡り切って大富町の通りへ出た。電光《いなびかり》のたびにちらり[#「ちらり」に傍点]と見える甚右衛門の影と、互いに前後に呼び合う声とを頼りに、八丁堀合点長屋を先刻出た藤吉勘次彦兵衛の三人は、風と雨と神鳴りとが三拍子揃って狂う丑満《うしみつ》の夜陰《やみ》を衝いて、いま大富町から本田主膳正御上屋敷の横を、媾曳橋《あいびきばし》へと急いでいる。
 天地の終りもかくやとばかり、もの凄い暴風雨の夜。
 はじめ、甚右衛門に随いて戸外へ出た時、親分乾児は一つになって庇い合いながら道路を拾ったのだったが、そのうちまず第一に藤吉と勘次の提灯が吹き消される、傘は持って行かれる、間もなく三人はちりぢりばらばらになって、もう他人のことなぞ構ってはいられない、銘々く[#「く」に傍点]の字型に身を屈《かが》めて、濡れ放題の自暴自棄《やぶれかぶれ》、いつしか履物もすっ[#「すっ」に傍点]飛んで尻端折りに空臑裸足《からすねはだし》、勘次は藤吉を、藤吉は彦兵衛を、彦は甚右衛門をと専心前方を往く一際黒い固体《かたまり》を望んで、吹抜けの河岸っ縁、うっかりすると飛ばされそうになるのを、意地も見得も荒風に這わんばかりの雁行を続けて行くことになったのだ。
 真夜中。人通りはない。礫《つぶて》のような雨が頬を打って、見上げる邸中の大木が梢小枝を揺り動かして絶入るように※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くところ、さながら狂女の断末魔――時折、甚右衛門の声が闇黒を裂いて伝わって来る。
 葬式《とむらい》彦は一生懸命、合羽をつぶ[#「つぶ」に傍点]に引っかけて身軽に扮《つく》っているとは言うものの、甚右衛門は足が早い。ともすれば見失いそうになる。これにはぐ[#「はぐ」に傍点]れては嵐を冒《おか》してまでわざわざ出張ってきた甲斐がないし、さりとてあまり進み過ぎては後につづく藤吉勘次が目標をなくして道に迷う。つまり、甚右衛門と親分との中間《あいだ》に立って鎖の役を勤めようという、これは昼日中でさえ相当の難事なのに、かてて加えてこの闇《くら》さ、この吹降り。彦兵衛、同時に前後《あとさき》に気を使いながら突風に逆らって行くのだが、なかなか容易な業ではない。が、そこはよくしたもので、甚右衛門は絶えず音を立てているから、それを知辺に方向が定められる。また、彦兵衛が少し遅れると、甚右衛門は角かどに立停まって待っていてくれた。実際、弾正橋から白魚橋へ曲ろうとする地形の複雑《こみい》った場所なぞでは、一度ならず二度三度、甚右衛門は駈け戻って来て、氷のように冷い鼻頭を彦の脚へ擦りつけたり、邪魔になるほど、踏み出す爪先にまつわり立ったりしておいて、再び案内顔に走り抜けたくらい。
 甚右衛門は犬である。鋳《い》かけ屋佐平次の唯一の伴侶《とも》、利口者として飼主よりも名の高い、甚右衛門は犢《こうし》のような土佐犬であった。
 その犬に先達されて、藤吉部屋の三人、こけつまろびつ御門跡の裏手を今は備中橋へかかった。雨風は募《つの》る一方、彦兵衛はよほどさきへ行っているとみえて、
「おう――
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