い。」
 と呼んでも返事がない。橋の上で藤吉は着物をかなぐり捨てるなり、欲しがる風にくれてやった。元結が切れて、頭髪をばっさり[#「ばっさり」に傍点]被った勘弁勘次が、泥を掴んで追いついた。
「勘か。」
「おう、親分。」
 相方何か言っているらしいが双方ともに聞こえない。とたんにぴかり[#「ぴかり」に傍点]っ、一時、あたりが白じらと明るくなる。
「お、あすこに彦! 勘、来い。」
「まいりやしょうぜ。」
 身体を斜に風の当りを弱めながら小笠原|長門守《ながとのかみ》様前を突っ切ると、次の一廓が松平修理太夫と和気《わけ》行蔵の二構え、お長屋門の傍から松が一本往来へ枝を張っている。その下に彦兵衛が立ち、彦の足許に、名犬甚右衛門がうずくまっていた。
 裸体《はだか》の親分を見るより早く、彦兵衛は己が合羽を脱いで着せる。序でにいまいましそうに、
「こん畜生め、」と甚右衛門を蹴って「親分、この犬あき[#「き」に傍点]の字でさあ。ちっ、目的もなしに吠え立てやがったに違えねえ。真に受けて飛び出して来たわしらこそ好え面の皮だ。機《とき》もあろうにこの荒ん中を――。」
 生樹の悲鳴、建物の響き。地を叩く雨声、空に転がる雷《いかずち》、耳へ口を寄せても根限り呶鳴らなければ通じない。と、この時、うう[#「うう」に傍点]と唸ってまたぞろ甚右衛門が走り出した。まるで、大自然のまえに無気力な人間どもを、仕方がねえから今まで待ち合わせてやったものの、さ、顔が揃ったらそろそろ出かけましょうぜ、とでも言いたげに。
「乗りかけた船だ、突き留めねえことにゃあ気がすまねえや。」藤吉は合羽の紐を結びながら、「勘的、われ、先発。」
「あいしょ。」
 あれから大川寄り、南飯田町うらは町家つづきだ、寒さ橋の袂から右に切れて、痛いほどの土砂降りを物ともせず、勘弁勘次を頭に釘抜藤吉に葬式彦兵衛、甚右衛門を追って遮二無二に突き進んだ。上柳原へ出ようとする少し手前に、そこだけ河へ食い込んでいるところから俗に張出し代地と呼ばれる埋立があって、奥は秋本|荀竜《じゅんりゅう》の邸になっているが、前はちょっとした丘で雑草の繁るに任せ、岸近くには枝垂《しだ》れ柳が二、三本、上り下りの屋形船《やかた》とともに、晩霞煙雨《ばんかえんう》にはそれでもなにやら捨てがたい趣きを添えていたもの。もとより山とは言うべくもないが、高いところなら猫の額でも山という名をつけたがるのが万事《よろず》に大袈裟な江戸者の癖で、御他聞に洩れず半ば塵埃《ごみ》捨場のこの小丘も、どうやら見ようによってはそうも見えるというので、一般には木槌山《さいづちやま》として通っていた。
 ここへ差しかかった土佐犬甚右衛門、背ろの三人を呼ぶように、さてはまた誰かに合図でもするかのように、一声高だかと遠吠えしたかと思うと、木槌の柄を作《な》して二、三間突き出ている土手の蔭へ走り込んだ。すると、草の間に提灯の灯が動いて、しゃがんでいたらしい人影が、すっくと起ち立った。闇黒に染む濡れた光りの中央に、頤《あご》から上を照されて奇《あや》しく隈《くま》取った佐平次の顔が、赤く小さく浮かび出た。その顔が、掌を口辺へ輪筒《わづつ》にして、けたたましく呼ばわっていた。
「釘抜の衆けえ。ここ、ここ、ここでがすよ。俺あ何です、痺《しび》れを切らして待ってやしたがね、まま何せかにせ、ど[#「ど」に傍点]えれえ騒ぎ――ようこそお早く――へえ。え? いや、実はね、あっしが甚右を使えに出したんで――お寝入りしなをなんともはや――だが、こりゃあ途方もねえことが起りましたよ。さ、ここです。ちょいとこちらへ――。」

      二

 八丁堀海老床の露地の奥、気の早い江戸っ児のなかでもいなせ[#「いなせ」に傍点]を誇る連中が集っている合点長屋、その一棟に朱総《しゅぶさ》を預る名代の岡っ引釘抜藤吉、乾児勘弁勘次に葬式彦兵衛、この三人が今夜の暴風雨を衝いて犬を追い慕って張出し埋地は木槌山まで出向いて来たについては、そこにただならぬ曰くがあるはず。ほかでもない――。
 あれで、九つ近かったか、それとも廻っていたか。
 御用筋が閑散《ひま》なのでいつものとおり海老床の梳場《すきば》で晩くまでとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いていた三人が、さすがにもう莫迦話にも飽きが来て巣へ帰ってほどないころ、勘次は親分の床を敷き、彦は何かぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]口の中で呟きながら表の板戸を閉《た》てようとしていた時、その彦兵衛の足を掬《すく》わん許りに突然《いきなり》一匹の大きな四つ足が飛び込んで来た。見ると、よくこの界隈にもうろついている土佐犬で、飼主の佐平次は毒にも薬にもならない鋳掛け屋渡世の小堅人だが、どうしてどうして犬だけは大したもの、提灯に釣鐘じゃ、いや猫に小判じゃ、などとも
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